覚えると覚わる
何かと言えば、覚えなさいである。先生も子供も、手間を省くために覚えることで済まそうとする。
「主要」五科目について考えてみると、中学校では、一応国語・英語・歴史・地理などが社会科学、数学や理科が自然科学と考えてよかろう。
社会科学系では、教える内容が多いからか、充分情報を整理して理解することよりも、頭から覚えるという方法で時間を稼ごうとする。勉強を自分の日常生活や生き方との関係から切り離してしまえば、言語は言語に過ぎないし、歴史や地理も単なる試験用の知識に過ぎなくなる。
一層ひどいのは自然科学の方である。数学でも、具体的な関数や方程式をたくさん解かせて技術を徹底して身に付けさせる方法が当たり前になっている。解けない子は、力のない子、進学もままならない子になるわけだ。
理科にしても、遊びや観察から生れた疑問をゆっくり反芻し、その背後を貫く法則性を見出すなどというのは後回しになりがちで、公式をどれだけたくさん覚えて問題を解けるかが価値基準になっているように思う。
教科書を充分理解する前に、公式を覚えさせ、問題を解かせることを繰り返す。子供たちは、疲れているせいか、文章問題をじっくり読んでその内容を充分に理解し考え始めるという当たり前のことが中々できない。
つまり自然科学系など本来「覚える」学問でないものでも、「覚える」ことを優先してしまい、じっくり考えて理性を身に付けるということが後回しになっている気がする。
これでは自分がやっていることが、進学のためにただ問題を解いているだけで、自分の将来どのように役に立っていくのか分からなくなってしまう。一つ一つの科目を勉強する意味を自分なりに納得して全体像をつかみ、しっかりした自我を形成する肥やしにすることが難しくなるのではないか。
『論語』の學而篇に「學而時習之 不亦説乎」というのがある。解釈は色々だが、学んで知識を増やすだけではなく、自分の人生で実習してみなくては面白くない。繰り返し取り組むことで自然に身に付け、自ら「覚わった」ものでなければ使い物にならない。