人物画像鏡(4)

今回は、「癸未年八月日十大王」にある「日十」の学説を遡ってみよう。
1 まず「八月日十」としたが、読み方が明確でないとしてこれを廃し、「日十(ヒソ)大王」または「曰十(ヲソ)大王」と読み、「オホケ王」(仁賢天皇)にあてる。福山敏男説
2 「日十大王」を「ジジュウ大王」とし、『新羅本紀』第二代南解次次雄本紀の金大問注に「慈充」とある点から、「次次雄=慈充」とし「呪師的司祭的王者」をあらわす尊号に解する。「雄朝津間稚子宿禰(すくね)」はこの「次次雄=慈充」と同じ呪的尊号とする。「宿禰(すくね)」は雄朝津間稚子宿禰天皇で、允恭天皇を指す。水野裕説
3 あくまで「八月日十」と読み、「日は十日」の意味とする。 井上光貞説
4 「日十大王」を「ヒト大王」とし、「多利思北孤」が「タリシ-ホコ」であるから、美称で呼べば「タリシ-ヒト」と読める。すでに訓読の表記があり、「人」ではなく「日十」と表記したのは佳字。古田武彦説
1及び3の「八月日十」と読むのは、「八月十日」となっていないのであるから、「十日」を「日十」とよむ倭語ないし和語の読み方を示すほうが良かろう。
1の「日十(ヒソ)」「曰十(ヲソ)」で「十」を「ソ」と読む根拠がはっきりしない。漢語音では『玉篇』及び『廣韻』で「是執切」とされ、声母が清音としてもこの時代に仮名音で「ソ」とよむことは難しい。「日」を「ヒ」と訓仮名とみており、「ソ」を音とみれば、湯桶読みであって何だかすわりが悪い。
また「そ」を訓とみれば、訓訓でそれなりに整合性があるものの、銘文中に訓の用例がないので、なぜここだけ訓仮名なのかという不安がある。
この点は2の「ジジュウ」及び4の「ヒト」もほぼ同じで、前者は音音としても「日」「十」共に音で仮名とする例がないし、後者は訓訓だが、なぜ百済が訓仮名を使ったのかが証明されておらず、それぞれ相当勇気のある仮説といってよい。
1から3までは倭の五王を『日本書紀』の天皇に当てることを前提しているとしか思えない。4については「衙頭」を「政所(まんどころ)」とする他、「解部(ときべ)」「偸人」「贓物」などから訓仮名の存在を示す可能性はあるが、他方で漢語と見るほうが自然とも考えられ、「日十」を佳字とする点も飛躍しているように思える。
無論これらはそれぞれ一世を風靡した説であり、更に充分検討する必要があるだろうが、これらとは異質な説として、「日十」を「日夲」の略体と読むのも意味があるかもしれない。

前の記事

神経痛

次の記事

覚えると覚わる