人物画像鏡(5)

仮に「十」が「夲」の略体として、それがいったい何の意味があるのだと言われると雄弁な解答ができない。気づいた点を箇条書きにしてみると、次のようになる。
1 「斯麻」が百済の「斯麻王」である可能性が強くなり、画像鏡の史料価値が更に高くなる。
2 「癸未年」を503年に確定できそうだ。
3 「日十」を「日夲」、「日夲」を「日本」と解することができれば、「日本國」の存在が金石文で確認できたことになり、欽明紀に記されている「安羅日本府」「任那日本府」などの信憑性が高まる。
4 「日本國」の前身であった可能性のある「日本貴國」「扶桑國」などとの距離が縮まる。
5 『梁書』倭國条で倭王武が再度任官されたのが502年であるから、「日本國」と「倭國」がほぼ同時期の史料に出てくることになり、この両者の関連がかなり具体性を持った議論の対象になりそうなこと。
今のところこんなものだが、倭王武との関連について言うと、彼があくまで倭国王として任官された点を確認する必要がある。
彼がこれを即放棄して日本大王を名乗り、百済がこれを直ちに承認し、「白上銅」を探して鏡に鋳た上、翌年使節を派遣して大王に贈るなどというのは忙しすぎる。
これらから、六世紀初頭に梁朝に承認された「倭國」と、百済に認識されている「日本國」が並立したことを確認できるのではないか。『舊唐書』日本國条にある「或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本」説は、この時点では成り立たない気がする。とすれば、「或云 日本舊小國 併倭國之地」にリアリティがあるように思えるがどうだろう。

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