公と私 -『説文解字』入門(1)-
公私の区別は難しい。一人の人間がそれだけ様々な役割や責任を負って暮しているということだろう。
『説文解字』で「公」(二篇上013)を引いてみると、「公 平分也 从八厶 八猶背也 韓非曰 背厶爲公」となっている。
「公」は題字、「平分也」はその意味で、この場合平等に分配するというほどの解である。「从八厶」はまた「从八 从厶」と書かれていることもあり、字の作り方を示している。「从」は見慣れないが、「從」の一部になっている字で、従うという意味。この場合、「八」と「厶」の両方に従うから会意字だ。
さて「公」の上の部分は「八」であり、「八猶背也」だから、「八」を「背(そむく)」と解している。「厶」(九篇上233)は、それだけで音義ともに「私」と同じ。
「韓非曰 背厶爲公」は、傍証として韓非を引き、「厶に背くから公なのだ」と説明している。
『説文』で韓非を引くのは珍しいのでもう一歩踏み込むと、『韓非子』五蠹(ごと)篇に「背私謂之公 公私之相背也」とある。辛口の韓非であるから、「公私の利害は一致しない」と一刀両断に切っている。
この世では、自分で働きもせず衣食を得る者が有能とされ、たいした実績もないのに弁舌のみで高位に登る者が賢人とされる。学問があるというだけで登用してはいけない。登用すれば公法が乱れる。
公位につく者すべてが「貞信」であるはずはない。残念ながら、公私を峻別する人物が数少ないことは認めざるを得まい。例え公人であれ、常に「私」を念頭や心底に置いて行動することはどうも責められないようである。
現代では、むしろ「私」として充分活躍することが「公」にとっても有益ということになっている。とは言え、私利だけが幅を利かせ公利が忘れられているのであれば、二千年前とちっとも変わらない。