人物画像鏡(24) -『日本書紀』の紀年-
『日本書紀』編纂のテーマは、歴史の真相を記すことではなく、王朝の正統性を主張することであった。このため伝承に違えてまで辛亥年(531年)を継体天皇在位二十五年目とし、『百済本記』の「日本天皇 太子 皇子倶崩薨」にある「日本天皇」を継体にあて、彼の死亡年としたのである。当否は別にして、ここに『書紀』の強い意思が見られる。
紀記共に継体を応神五世とするから、例えこれが史実としても、皇統に入るのか否か微妙である。また彼の出身地や大和へ入る経路の困難さを思えば、彼を「異質」な系統と考えざるを得まい。更に、『古事記』で顕宗-仁賢-武烈の系統を「在位八年」などと在位年を書き、継体-安閑-宣化-欽明のそれは死亡年を書く手法から、この両系統が別の史料に基づいて書かれていたとも考えられる。
辛亥年(531年)を武烈でなく継体の死亡年にあてたのは、彼が「日本国」との繋がりが薄いにもかかわらず武烈から正統に皇位を受けついだことを、海外史料を用いて客観的に書いている印象を与えたかったからではないか。
このため、継体在位二十五年をどうしても「日本国」の皇統に竄入しなくてはならなくなった。その結果、武烈八年、仁賢十二年及び顕宗の死亡年まではそのまま玉突きで二十五年遡るだけだが、顕宗八年のうち五年と飯豊王のほぼ二十年が消えてしまったのである。この場合、一応清寧五年はそのまま雄略の後としておく。飯豊女王については、編纂時すでに『宋書』『梁書』などの史料が入手できただろうから、編者が史書に記載されない「女王」の段を削ることに躊躇しなかったと思う。
これらから、『日本書紀』が年紀を造作してまで万世一系の原則を貫き、可能な限り中国史料や百済系三史料などと整合させて体裁を繕ったことが見えてくる。
531年から533年までの「三年の空白」について言えば、これこそ継体天皇が実際に「日本国」を継承した三年ということになる。いやはや、金石史料の威力はすさまじい。