すべての否定

ちょっとショッキングな題である。
この歳になると自分の生き方に言い訳ができない。否応なしに顔にも生きてきた道中が出てしまう。私の様なつぎはぎだらけの人生が多いとは限らないが、それぞれ歳相応に、そろそろ避けようのない一つの個性として自覚するのではないか。
自分の意見を簡単に否定されると、全てを否定されたように感じてしまうことがある。我々の年齢だと、瞬間に自分の余命を思い、営々と積み上げてきたものが何かくだらないものと感じ、空しくなったりする。
だが、これは自分の考えていることが全て正しいと考えているからであって、無論、錯覚である。自分の考えを全て是と前提すること自体、思い上がっている。どんなに厳密に生きようとも、また何年生きようとも、全て正しい生き方や考えなどあるはずがない。これを証明するのは簡単で、「ある」事柄が誤りであることを指摘すればこと足りており、これだけで「全て」正しいという命題が否定されたことになる。
逆に、自信を失って、自分の考えが全て誤っているかも知れないと考えて生きることもある。これもまた、「ある」事柄が正しいと示せば十分である。それぞれ、「ある」事では相当自信をもてる分野があるものだ。
実績ある人の意見は、その分野では、重視されるのは当然である。だが、「社会的地位」や金などで、自分の意見が全て通ると勘違いしている人もいるかもしれない。
日常の生活であれ、公の場であれ、実りある会話や議論をするには肯定や否定は避けがたい方法である。我々は、否定されることに慣れ、否定に耐える強靭な精神を身につけなければなるまい。
例えひどく否定されても、自分の全てを否定されたと思い上がらず、これからも声を荒げないで意見を述べるつもりである。