人物画像鏡(25) -二倍年暦-

こんなテーマを掲げても何の事か分からない人もいるだろうから、少し説明することから始める。『三国志』の魏書東夷傳倭人条という基本史料があることはご存知だとして、この中に斐松之が「魏略曰 其俗不知正歳四節 但記春耕秋收爲年紀」という注を施している点はどうだろう。彼は、お手本とした『魏略』から、倭人が「正歳四節」を知らず、ただ「春耕秋收」をもって年紀としていると書き加えている。
斐松之は南朝劉宋代の人で、堅実な注を加えていると考えられている。彼は五世紀の人と言ってよく、この頃の倭人がしっかりした暦を使っていないことを強調しているわけだ。「春耕をもって一年、秋收をもって一年とする」から、倭人は暦上の一年を二年と考えていたことになる。
それでは、いつまで春秋の農耕暦を使い、いつごろ中国の暦に変わったのだろうか。『日本書紀』と『古事記』では、その区切りがやや異なっているように思われる。
『日本書紀』の場合は、ややこしい。継体、安閑、宣化まで年齢に関しては二倍年暦だろう。これは、継体天皇について『古事記』が43歳で死亡したとするのに対し、『日本書紀』が82歳死亡としており、三年の空白を考慮に入れれば、ほぼ二倍になると考えられるからだ。安閑、宣化は死亡年齢がそれぞれ70歳、73歳だから微妙だが、継体を基準にすればやはり二倍年になっていると思われる。だが即位在位年など公式の紀年については、清寧天皇以後はこれらを修正した一倍年暦だろう。とすれば、継体と安閑・宣化の親子関係に疑問が残る。
『古事記』の場合は、雄略天皇が124歳で死亡したと書いており、二倍年暦の可能性が強い。清寧天皇は死亡年及び死亡年齢に触れておらず、顕宗天皇は在位八年、38歳で死亡したとされている。これから清寧天皇代を移行期、顕宗天皇の代で年齢及び在位年共に一倍年暦となっているとも考えられる。
紀記が参照した記録類は、恐らく二倍年暦を含む錯綜した状態だったと推定できるが、在位年については紀記共に遅くとも顕宗天皇の代で一倍年暦に修正されているのではあるまいか。