『説文』入門(17) -「乙」な話(下)-

今回は、「乙」の義を中心に考えてみよう。仮借字といえども、和語の意味を考慮して字形を択んだとも考えられる。
『説文』は「乙は甲を承け」とあるから、「乙」には「甲」に次ぐ意味があるのは間違いない。
『古事記』では、日子坐王の母である意祁都比賣と、彼女の「弟(いろと 妹)」を袁祁都比賣命とする点からも、意祁が兄で袁祁が弟であるのは確かである。また「意」が「オ」、「袁」が「ヲ」の仮名であることも間違いなく、弟の方を「ヲケ」とすることから、『古事記』の仮名で「ヲ」には「年若い」という義があるだろう。とすれば、「弟」を「ヲト」と読みたくなる。
『玉勝間』で本居翁は、「但し甲乙を木の兄(きのえ)木の弟(きのと)といふをもて思へば、弟の意にもあらむか」とし、「弟」の義としても不適であると主張している。この場合、彼は「劣(オト)る」などを念頭に置いていたかもしれない。
翁は同じく『玉勝間』巻八「萬葉集に乎知といふ言、郭公にをちかへりとよむ言」の段で、「をちかへり」を「若返る」と喝破している。この「ヲチ」には、「男(をとこ)」「をとめ」の「ヲト」と関連するだろうから、「ヲト」と共に万葉時代においても「年若い」という義があったことは間違いあるまい。
これから、少なくとも「弟」には「劣(オト)る」「年若い(ヲト ヲチ)」の両義が長く並存していたように思える。この後に、「弟」が「オト」に、「男」が「ヲトコ」に定着したのではないか。
従って、『梁書』扶桑國條に登場する「乙祁」の「乙」は、同国の情報をもとに、仮借のみならず「弟」の意をもつ類義の字として用いられた可能性もあるわけだ。私の場合、これが画像鏡の「男弟王」にあてる根拠の一つになっている。