『説文』入門(20) -「奴」と「那」について-

「奴」を「ナ」と読む根拠が薄いことを述べてきた。列島史の骨格にあたるところだから、もう少し付き合ってもらいたい。
既に「奴」を見ていただいたので「那」を引用すべきところであるが、『説文』にはそれとして「那」が見当たらず、これだけでも簡単ではない。邑(おおざと)部に「冄」につくる字形(六篇下242)があり、これが「那」にあたるということになっている。フォントの関係でお見せできないのが残念だ。
字形に関して言うと、『説文』では「冄聲」としており、『廣雅』でもやはり「冄」につくっている。『玉篇』『廣韻』では「那」の形であり、これらだけではいつ頃もっぱら「那」の字形になったのか分からない。音からすれば前漢代には共用されていたとは推測できる。或いは金石の研究ですでに妥当な推定がなされているのかもしれない。
音については『詩經』商頌の毛伝に「那 多也」、『爾雅』釋詁にやはり「那 多也」とあり、『説文』段注では「那」「多」を「雙声」とし「諾何切」、『説文通訓定聲』(朱駿聲)では「那 叚借爲多」とし「那」「多」を仮借字とするから、恐らく前漢代から後漢代始めには「ダ」「タ」の系統が主流だったと考えられる。
他方、『廣雅』釋言に「奈 那也」とあり、「那」を「如何」「奈何」の合言とする考えがある。これからすれば少なくとも三国魏から晋代には「ナ」あたりにも読まれていただろう。
鳩摩羅什の「妙法華経」(408年)を見ると サンスクリットの[n]音を「那」「奈」で音訳している。まだ竺法護の「正法華経」(三世紀末)を見ていないが、この時代には「ナ」音の系統は南北共通に使われたということになりそうだ。
『後漢書』東夷列傳・高句麗条に「凡有五族 有消奴部 絶奴部 順奴部 灌奴部 桂婁部」とあり、部族名の中に「奴」が使われている。これに対し、『高句麗本紀』大武神王五年に「掾那部」、大祖大王二十年に「貫那部」、同二十二年に「桓那部」などとあり、「奴」を「那」にあて「ナ」と読む根拠にすることがある。だが、『高句麗本紀』が準拠した史料がどれほど遡れるか不明で、この用語がいつごろ使われるようになったのか分からない。
この場合でも、范曄が加工せず史料を引用したとすれば、やはり『後漢書』の「奴」は[d][t]の系統で読むことを優先したい。