金印(7) -二つの「倭國」-

今回は「倭國」を取り上げてみよう。『後漢書』東夷傳倭条に「倭國」が三例ある。私は二通りの意味合いがあると解しており、これについて考えてみようという趣向である。音を入れてみたので混乱するかもしれない。
1 「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也」
2 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
3 「桓靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」
1は前にも引用した文で、「倭國」を「倭人の國」と解した。これは同光武本紀には「東夷倭奴國王遣使奉獻」とあるのみで、「倭國」の記載がないからである。
私は、1の「倭國」は范曄の解釈で加えられたと考えている。范曄が「倭國」と書くからにはそれなりに根拠があっただろう。私は、彼が『漢書』地理志の臣瓚注を採用したからではないかと推測している。臣瓚は地理志の「倭人」に「倭是國名」と注を施している。この中の「倭」は魏代及び西晋代に通行してきた「倭國」が前提にあり、彼がこれを前漢にまで遡らせたとも解せる。
一応「倭」が「ヰ」から「ワ」に音転したのが如淳以後で、魏代末から西晋代とすれば、臣瓚は「倭(ワ)國」を遡らせて「倭(ヰ)人」を「倭(ワ)人」と読んでいたことになる。これを採用した范曄もまた「倭(ヰ)奴國」を「倭(ワ)國」の「極南界」にあると解したのではないか。
だが、倭種に何らかの政治上の繋がりがあって「倭國」に集権されている状況にあれば、金印で「漢倭國王」になるだろう。実際のところ金印には「漢委奴國王」と刻印されており、仮に范曄が云うように「倭國」が実在していたとしても、この「倭」には政治上の権能はなかったと考える他ない。以上から、私は范曄が恐らく「倭」を「ワ」と読み「倭國」とするものを「倭人の國」或は「倭種の國」に読むのである。
2は安帝本紀十月条に「倭國遣使奉獻」とあり、公文書をそのまま記載したと考えれば范曄の解釈が入る余地はなく、「倭(ヰ)國」と読めるだろう。列伝の「倭國王帥升」は本紀と対応している分には「倭(ヰ)國」だろうが、范曄はこれを「倭(ワ)國」に読んでいた可能性がある。私は、この時点で「倭(ヰ)國」という政治概念が生れたと考えている。
3は、本紀に対応する文が無いので判断しがたいが、『三國志』魏書東夷傳・倭人条の記事と稍異なることから、范曄の作文とは考え難い。既に「倭國」が存在していたのだから同じものと考えてよさそうで、「倭國大亂」の「倭國」は「倭(ヰ)國王帥升等」のそれだろう。
以上、私は「倭」の音転した時期を特定することが必要であり、これが列島古代史の骨組みにかかわると考えている。