金印(12) -「委奴國」は越系-

「蠻」が「南蠻」であり、『説文』入門(24)で「南蠻」が蛇種であることはおおよそ示せたと思う。これから「滇王」の印が蛇鈕だから「滇國」が「南蠻 它種」であり、金印も蛇鈕だから「南蠻 它種」を背景に持つ者に与えられたと推定できるだろう。越種が南蛮で、蛇種と考えられていたことは確かである。
ここでは更に『三國志』魏書の東夷傳倭人条から、陳寿が倭人を越系と考えていたことを示そうと思う。今回は以下の三例。
1 「男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子 封於會稽 斷髮文身 以避蛟龍之害」
2 「計其道里 當在會稽東冶之東」
3 「所有無與儋耳・朱崖同」
『史記』越王勾踐世家第十一に「越王勾踐」の出自が記されている。「越王勾踐 其先禹之苗裔 而夏后少康之庶子也 封於會稽 以奉守禹之祀 文身斷髮 披草萊而邑焉」というもので、『漢書』地理志粤地条でもほぼこれを確認できる。「粤」は、「越」の異体。
陳寿が主たる倭人の出自を書くにあたって、これらの記録を意識していたことは間違いあるまい。細かなところまで符合するから解説するまでもなかろうが、念のため整理しておくと、禹の「苗裔」で「夏后少康之子」の系統であること、「會稽」に封ぜられたこと、「斷髮文身」していたことなどが抜き出せる。
2の「計其道里 當在會稽東冶之東」は、倭人が会稽の東に位置するというから、彼が倭人を越種だと考えていたことは間違いあるまい。だが、これはあくまで陳寿の地理観である。初めて「倭人」について公式に記されたのが『漢書』地理志の燕地条であり、この中で引かれた孔子の言から、倭人が東夷であって南蛮ではないと考えることもできる。私はこれを、倭人が通行した様式と彼らの多様な出自を示す史料と考えている。引用文中の「東冶」を「東治」とすることがあるので注意したい。
3については、その習俗から武器にいたるまで南方の「儋耳・朱崖」と同じと解している。陳寿が『漢書』地理志粤地条を参考にしてこれを書いたことは間違いなかろう。「鐵鏃」など細かな点で異なるものの、同条とほぼ同習俗を書いているといってもよいほどである。
以上、金印の蛇鈕と陳寿の記述から、「委奴國」が南蛮で蛇種であり、越種人の系統だったと考えてよいのではあるまいか。