金印(15) -落差-

このシリーズを締めくくるかどうか苦慮している。金印は列島史の基盤になる史料であり、更に情報を搾り出すのが筋ではあるが、私自身の力不足に加え、コラムという制約がある。
また今回はテーマから離れそうで心苦しいが、金印に関連して、一歩でも古代通史につながるならばこらえて頂けるのではないかと思い書くことにした。
私は、金印(12)で「委奴國」を越系とし、金印(13)で「女王國」を呉系とした。また『舊唐書』の「倭國者古倭奴國也」から、越系が再び列島の主たる勢力に代わったと推定してきた。それではいつ頃復活したのか。論点は以下の四つ。
1 『宋書』倭國条と『隋書』倭國条との落差。今回は『隋書』が記す「倭」「俀」について触れず、一般に使われる字形を採用しておく。
2 倭国記事が『梁書』で途切れること。
3 『梁職貢圖』の倭国使。
4 記紀の「磐井の乱」がこれに対応しそうなこと。
それぞれを細かく述べるべきであるが、スペースに限りがあるので、ここでは1の要点を述べるだけにする。
私は後漢末の「倭國大亂」後、呉系の「女王國」が倭國の主たる勢力になり、これが倭王武まで三世紀以上も継続したと考えている。
『宋書』倭國条では、倭の五王が南朝と堂々とした外交をしている。太祖元嘉二年(425年)、同二十八年(451年)条では王のみならず将軍や軍郡の制がとられたようであるし、それなりに国家の形が垣間見れる。
中でも、倭王武の上表文は立派な漢語であり、自らの政府が代々正当性を持つと主張している。これらからすれば、倭国が漢語ないし倭語を介して成り立っていることは間違いあるまい。
これに対し、『隋書』倭國条では「無文字 唯刻木結繩 敬佛法 於百濟求得佛經 始有文字」とあり、倭国に文字がなく、木を刻み、縄を結んで意思伝達したとある。この場合の「文字」が漢語であることは間違いなかろう。
『宋書』が記すのは支配者のことで『隋書』が俗のこととすれば左程疑問もないが、「敬佛法 於百濟求得佛經 始有文字」が簡単な解釈を許さない。この場合の「佛經」は国家仏教と考えられ、公式なものである。従って文字通り、百済から仏法を得た時に始めて文字を持つようになったのではなかろうか。仏教が六世紀前半ないし中頃に倭国へ公式に伝来したとすれば、倭王武の死後から仏教伝来までの間に大きな変化があったと考えられないか。
私は、これが2の『梁書』以後『隋書』まで倭国に関する記事が途切れることに関連すると推測している。