金印(16) -『梁書』で途切れること-

前回は『宋書』と『隋書』の倭國条に大きな落差があることを指摘し、その中で仏教が伝来することで文字が使われるようになったとする『隋書』の記事を史実とみて、六世紀前半に倭国の主たる勢力に交代があったと推定した。
今回はこれから更にこの政権交代の時期を絞っていく作業として、『梁書』倭國条を簡単に概観してみたい。
1 「倭者 自云太伯之後 俗皆文身」
2 「漢靈帝光和中 倭國亂」
3 「高祖即位(502年) 進武號征東將軍」
1では梁朝に通行する倭が「太伯之後」であって、その習俗として「俗皆文身」しているという。呉系・越系ともに文身習俗があったと考えられるが、政権の中枢にいた者たちは既にその習俗を失っていたとも読める。
2では、この倭国が「倭國亂」から始まることを示しており、卑彌呼から倭王武まで呉系が連綿として受け継がれていることになる。
3は倭王武の進號記事である。これを軽視する考えもあるが、『梁書』が正史であり、史料評価上も受け入れざるを得ないだろう。3の後は「侏儒國」など倭国以外の国を紹介しているから、実質上倭国に関しては武の記事で終っている。
倭国は魏代から晋代、劉宋代、南齊代、梁初まで欠かさず使節を送り、それぞれの王朝から任官されている。梁朝は502年に成立し、557年まで続いている。『陳書』では倭国に関して何も記されないから、陳朝が成立した時には、倭国は南朝に使節を送らなかったことになる。
これは単に倭国が内向きになり、外交政策が変わっただけとも考えられる。だが、卑弥呼以後中国との外交が国是であった印象があるし、加羅や新羅などが新たに中国と外交を始めるなど、この時期でも通商・外交において中国が中心であったことは間違いなく、何だか不自然である。
これから、梁代に倭国内で何らかの重大な事態が生じたので、梁朝及び陳朝に使節を送れなかったと考えられないか。
倭王武が梁朝による任官後いつ死亡したのかは分からない。以後通行が途切れることから、彼の在位中に政権が交代し、彼以後王位が継承されず使節を送れなかったか、もしくは王位が継承できたとしても外交使節を送れない事情があったことになる。

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