三段論法
論理を金科玉条として仮説を組み立てることの空しさは、身にしみて分かっている。なのに、よくよく考えるとまたもや不用意に使っていることに気がついた。
だいたい理屈なんてものは、実際に汗をかくことに比べれば、役には立たんものだ。幾ら丁寧に論理を組み立てたとしても、相手を説得できるのは直感の一言であったりする。
三段論法というのは古くからあり、数学や論理学のみならず、哲学の分野でもしばしば用いられる。至って簡単な理屈で、A=B かつ B=C ならば A=C というようなものである。数学の場合は代数学でも幾何学でも、実際の場面をリアルに示す方法ではなく、抽象した上で順序よく説明する方法だと思う。
例えばリンゴ100グラム(A)と鉄100グラム(B)は重さの点でA=Bと言える。また鉄100グラム(B)と紙100グラム(C)もやはり重さの点でB=Cと言える。よって、重さに関してA=Cと言える。つまりリンゴ100グラム(A)と紙100グラム(C)は等しい。だが、これはそれぞれの重さを抽象して等式を作っただけで、何らそれらの質や機能などを説明したわけではない。
幾何学でも同じことが言える。例えば線分は直線の一部を切り取ったものだ。だが、厳密な意味で直線は限りなく伸びることになっているので、直線や線分などというものはこの世に存在しない。また、線分の定義である「二点間の最短距離」は、絶対空間でのみ可能であって実際には存在せず、人間の頭の中でのみ存在する抽象化された概念に過ぎない。だがまあ、こんな理屈がすぐに役立つとは思えない。
このように論理がその威力を発揮するのは多く抽象化された場面であって、日常ではない。やたら使うのは混乱の原因になることが多く、大抵は実証に及ばない。
コラムで例え「三段論法」に近い方法を使っているとしても、能力が足りない上に実証の手段が乏しいためと考えて、大目に見てもらいたいというのが主旨である。