金印(17) -『梁職貢圖』-

『梁職貢圖』という史料がある。異説もあるが、今のところ蕭繹が荊州刺史として在任中であった526年から539年の間に、諸国の外交使節を自ら描いたものと考えている。彼は後に梁朝の元帝となる人物だから、勿論公式なもので、同時代史料であり史料価値は高い。現在見られるのは、残存した一部を北宋代にコピーしたものという。
『梁書』倭条には倭国に関して高祖即位年(502年)の任官記事しかなく、この時の使節を描いたものが何かあり、この原画をコピーした可能性もある。
だが、私は蕭繹自身が在任中の時々に、実際にそれぞれの使節をモデルにして描いたものが多いのではないかと推察している。これに描かれた倭国使についても、同期間に派遣された使節をモデルにしたのではなかろうか。とすれば、倭国が高祖即位年(502年)以後にも使節を送っていたことになるが、『梁書』には派遣された記事がない。
さて倭人の絵を見てみよう。私にはこれが倭国の国使の姿には見えない。例えば、彼が裸足の姿で描かれている点を取り上げてみる。王の信頼できる腹心が国使として派遣されるだろう。私が彼を倭の五王系が派遣した人物ではないと考える根拠はおおよそ次の三つ。
1 「太伯之後」と自称し、古来、中国と深いかかわりがあると主張している。
2 三百年にわたって中国の各王朝と通行し、それぞれ倭王として冊封されている。
3 少なくとも宋代には倭の五王のみならず、元嘉二年条(425年)では「司馬曹達」や「倭隋」と呼ばれる人物が中国風の名を名乗っている。
以上から、倭王が自ら中国の「伯」の子孫であると名乗り、かつ倭国が長年中国とそれなりに緊密な外交関係を保ち、また実際に王自ら一字姓、一字名を名乗っているだけでなく王族や高官もまた中国風の姓名を名乗っていることになるだろう。
他方、『隋書』に「又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州 疑不能明也」(608年)とあり、倭国内で実際に中国と異ならない風俗をもつ国もあった。
この状況下、公式の文書にあたる絵の中で、倭国使が裸足の姿に描かれるとは考えにくい。むしろ彼の姿は、『魏書』倭人条に描かれたそれとの共通点が多く、南蛮の習俗を伝えているように思われる。とすれば、この時期には、すでに五王系を主権者とする倭国は外交使節を派遣できない時代だったことになる。
つまり梁代の半ば(526年-539年)あたりには、既に呉系から旧委奴国系に政権が交代しており、『梁職貢圖』での倭人はまだ公式には梁朝から承認されていない越系の倭国使をモデルにして描かれたと考えられないか。

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