好太王碑文(7) -「東」と「更」-

欠字を補うには、少なくとも、考えうるすべての可能性を尽くす必要がある。中でも辛卯年条は、これからも列島史の根幹に関わると思われるので、慎重を期したい。例え周到な研究であったとしても、あくまで欠字であり、今のところ解答がないからである。
再度、同条を眺めてみよう。「百殘新羅 舊是屬民 由來朝貢 而倭以辛卯年來渡海 破百殘□□新羅 以爲臣民」までは、異論は少ない。
「百殘新羅 舊是屬民 由來朝貢」という前文から、「而」以後は「百殘」「新羅」についての記事が続くと解して、私はこの両者を同格でつなぐ語を補う方向にある。
いまのところ「又」「更」「聯」などをあてる説があり、大義名分上からも文脈上からも、「又」「聯」にはかなり不安があると考えている。この点は、次回に示すつもりである。
今回は、有力と思われる「更」について触れてみよう。
「更」と補うのは、あるいは拓本製作に関わった協力者の一人が欠字を「東」とみたことが根拠の一つにあるかもしれない。なるほどこれも無視できない情報である。ただし「東」では意味上つながりにくいから、字形が似ている「更」の誤りとし、前後の文脈からもこれを採用しているのではあるまいか。
ただ、碑文中に「更」の用例は見当たらず心細い。従って、意味上では確かに可能だとしても、細心の注意が必要である。碑文中に「東」の用例は四つ。
1 「永樂世位 因遣黄龍來下迎王 王於忽本東岡 黄龍負昇天」(前紀)
2 「東莱□城 力城 北豐」(五年条)
3 「東夫餘舊是鄒牟王屬民」(二十年条)
4 「東海賈國烟三 看烟五」
いずれも、「東」の字形で、隷書風である。だからこそ、私には次のような不安がある。
一つは楷書体で「更」が篆書体では字形が異なっており、碑文中に用例がないので、いずれを基にした字が使われているか判別できない。篆書体に近い字形であれば、「東」と誤ることは考え難いからである。
一つは「何がしの誤り」という方法である。写本であれば、残念ながら、字形を誤ることも少なくない。だがここは金石文の話であって、軽々しく「誤り」を論拠にすべきではない。実際、上に挙げた四つの用例で、「更」を誤って「東」にしている明らかな例はないだろう。
碑文中で他に用例がないからといって「更」がないとは言えないが、前文が「百殘-新羅」が並立した関係であるから、同格ないし並立で接続の意味を持つ「而」を優先したい。

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