『説文』入門(40) -「壹」と「臺」(中)-

私は『三國志』倭人条の「邪馬壹國」及び『後漢書』の「邪馬臺國」のいずれも実在したと考えており、いずれかが正しく、他方が誤っているという立場は取らない。
まず「邪馬壹國」について言うと、『三國志』の版本すべてで「邪馬壹國」となっている。南宋代の紹興本・紹煕本以下は、劉宋の裴松之が注を作り元嘉六年(429年)文帝に奏上した『三國志』をもとにしている。松之は「邪馬壹國」について注を施していないから、原文の「壹」を当然のものとして受け止めていたと思われる。
『梁書』がこれを「臺」につくるのは、『後漢書』に依拠していると思われ、『三國志』の「壹」を改訂する理由にはならない。
ただし、『隋書』『北史』が「其地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」とする点は気になる。ここで云う「魏志」が裴松之注の『三國志』を指しているとすれば、確かに「臺」の誤りとも考えられる。しかし、「魏志」の書名が気になるし、この場合の「魏」は北魏かもしれない。仮に三国魏にあたるとしても、異なる史料系統を使ったとも考えられる。これだけで『三國志』の「邪馬壹國」を改訂することは許されない。
「邪馬臺國」の方も、事情は変わらない。『後漢書』全ての版本で「邪馬臺國」となっている。これを范曄自身が、彼の生きた劉宋代の流行で、『三國志』の「壹」を「臺」に改訂したという主張もまた充分な証明がなされているとは言いがたい。范曄の歴史家としての資質に関わるとも思われ、他に「壹」を「臺」に改訂している例を充分示す必要があるだろう。
以上、『三國志』の「邪馬壹國」および『後漢書』の「邪馬臺國」は、現状いずれも史料に基づいた確かな記述であると考えざるを得ない。
前回陳べたように「壹」は、魏朝の大義名分論による用語で、「誠実な」「輩也」などの義と考えられる。「魏臺」(蜀書「物故」裴松之注)「因詣臺」(魏書倭人条)など、魏の皇帝を「臺」と呼ぶのは、武帝・文帝ともに封禪の儀を行えなかったわけであるから、彼らの野心と無念が背景にあるのではなかろうか。これから陳寿は諱(いみな)に準じて、蛮夷に対し、漢代の「臺國」を「壹國」に書き換えたのではあるまいか。「壹與」からも、彼の一貫した意思を感じる。
他方范曄が記す「邪馬臺國」につき、倭条に「自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國」とあることから、「臺」の義を前漢の武帝まで遡って解釈すべきか、「世世傳統」から後漢成立以後を念頭に置くべきかを大まかに定めなくてはなるまい。この点がまた、「邪馬臺國」「邪馬壹國」両者が同一の実体を持つ国であるか否かを左右するだろうし、列島古代史の骨組みに関わることになるだろう。
「臺」「壹」が仮借字として使われている可能性については、いずれ解析できる機会をもちたい。

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