邪馬臺國(2) -論理-

「邪馬臺國」を取り上げる前に、私の立場をもう少し明らかにしておく。
私は鋭い論理を駆使する能力もないし、好きでもない。一般に論理が鋭ければ鋭いほど明快であるが、主張全体が脆弱になることがある。だとしても、自分の考えを述べるには分かりやすくする必要があり、論理の力を借りることもやむを得ない。陳寿が「壹」に書き換えた点をしっかり確かめねばならないからである。
1 松之が、王沈らの『魏書』で「壺」を「壹」に書き換えていることを書き残している。
これは、王沈らが魏の大義から『漢書』の文字すら「壹」に変えてしまったことを示している。「壹」は「壺」と字形が近く、「誠也」「輩也」の義で、大義名分を表すのに都合のよい文字だった。(『説文』入門43)
2 陳寿自身もまた、実際、鮮卑伝本文中で「闕」を「厥」字に変えている。これは、彼もまた魏の大義名分論に身をおいていることを示す。他方「闕」「臺」は類義語と言ってよく、「魏臺」などの用例から、彼が倭人条などで蛮夷に対し「臺」をそのまま使うとは考えにくい。(『説文』入門44)
3 范曄は、「倭奴國」と同様、「邪馬臺國」についても一次史料を有していたと思われる。倭条の「倭奴國」が金印という金石史料で確かめられており、現状これに勝る史料は考えられない。よって同条に載る「邪馬臺國」には信憑性がある。「邪馬臺國」はまた『三國志』倭人条の「邪馬壹國」に対応していると考えられる。これらから、「邪馬壹國」は「臺」が「壹」に書き換えられた実例と言ってよい。(『説文』入門41)
4 『三國志』呉書の「聖壹」は、陳寿が「羌」に関連して原形の「聖臺」を書き換えたもので、もう一つの実証例と考えてよいだろう。(『説文』入門41)
中国史ないし論理からすれば3、4の順序だが、列島史を中心に考えれば4、3の順かもしれない。
北狄の匈奴に対して「壺」を「壹」、鮮卑に対し「闕」を「厥」、西戎の羌に対し「臺」を「壹」へ書き換えたのは魏の大義名分論ないし中華思想によるもので、松之はこれらから陳寿が東夷である倭人の国名と女王名を「臺」から「壹」へ換えたのも不思議ではないと解しただろう。だが、彼は『三國志』の注を施すのであるから原文に縛られる。彼は、原形を承知した上で、歴史家として「邪馬壹國」を改定しなかった。魏朝におもねた大義名分論と偏狭な中華思想に基づいた表記であるとしても、史料に記載された文字を容易に変えることはできないのである。他方、范曄は『後漢書』を書くのだから一応『三國志』から解放されている。
幸いにも、范曄と松之という二人の歴史家によって、列島の古代史がより正確な根拠を得ることになった。以上、「臺」が大義名分論と中華思想に囚われていないと解せるので、自信を持って列島の古代史を「邪馬臺國」から始めたいと思う。