邪馬臺國(4) -『隋書』の「所謂邪馬臺」について-

『隋書』は初唐に編まれた歴史書である。ほぼ同時代史料といってよく、編纂に顔師古や孔穎達らも参画していたとされており、信頼性の高い史料である。貞観十年(636年)、魏徴によって本紀五巻および列傳五十巻が完成されているから、列傳中の「俀國」条も同年には記されていたことになる。
『説文』入門(40)で、『隋書』が「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」とする点は気になると書いた。その時は、
1 「魏志」の書名が気になるし、この場合の「魏」は北魏かもしれない。
2 仮に三国魏にあたるとしても、異なる史料系統を使ったとも考えられる。
と推論した。ただし「魏志」が『三國志』「魏書」を指す用例もないわけでなさそうだから、今回は、一応裴松之注の『三國志』を指していると考えてみる。これが確かだとすれば、倭人条の「壹」は「臺」の誤りとも解せるかもしれない。この点を、もう少し掘り下げてみよう。まず『隋書』の「俀國」「安帝時 又遣使朝貢 謂之俀奴國」「俀王」で使われている「俀」という表記について、私の立場を示しておく。
この内、「俀奴國」が『後漢書』倭条の「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」に対応していることは間違いあるまい。だとすれば、『後漢書』では「倭國」とする国を、『隋書』が「俀奴國」と呼んでいることになる。これが正しいとは言えないとしても、一つの解釈であり、当時最新の研究結果であったと考えてよいだろう。
とすれば、この「俀奴國」が「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀」の「倭奴國」に関連することになる。「倭奴國」は金印の「委奴國」とみなしてよかろうから、「俀」が「倭」「委」に代わる文字であることは間違いない。どのような経緯で「俀」字が使われるようになったのか不明ながら、「俀國」「俀王」はそれぞれ「倭國」「倭王」に代わる表記であり、実体は変わらないと考えてよさそうだ。
私は、『三國志』の「邪馬壹國」及び『後漢書』倭条の「邪馬臺國」がいずれも「正しい」記載であると考えている。『三國志』は、ほぼ同時代史を扱っており、『後漢書』より早く編まれた割合堅実な史書である。従って、「邪馬壹國」の記載が尊重されるべきであるのは論をまたない。ただし私は、この「壹」が陳寿の大義名分論と中華思想による「臺」の書き換えであり、『後漢書』の「邪馬臺國」が原形であると推定してきた。
以上からすれば、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」の「所謂」という表現が気になるところだ。唐代には、すでに范曄、松之以後の成果を生かし、『三國志』魏書の「邪馬壹」が一般に「邪馬臺」と解されていたのではないか。「邪馬臺」が正しい根拠として、「都於邪靡堆」で例証していると読める。つまりは、魏徴らが「邪馬臺」を原形とみていたことを示す文章だとも解せるだろう。「邪靡堆」の音については、機会があればということで、今回は勘弁していただきたい。

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