知性

私はこの言葉に拘って生きてきたように思う。周囲に知性豊かな人たちが多かったので、自らの愚鈍さがコンプレックスとして定着してしまったのだろう。だからと言って、猛烈に勉強したわけでも、しこたま考え抜いてきたわけでもない。
仮に知性を、生活に必要な常識、該博な知識、知恵などに分けてみると、今回はもっとも根幹の常識たる知性についてである。
この社会で楽しく生きるには、知らなくてはならない常識がある。誰でも、一人前の人間として生きるには、常識たる権利も義務も背負わなければならない。それらは長年培ってきたもので、ほとんどは遺産である。以下は、そのさらに基本となるものだ。
人は知らず知らずに、自分の足で、人の頭を踏んでしまっていることがある。自分が知らないことで、他者が立ち上がれないほど傷つけていることがあるのだ。この場合は、まずその事実を知り、直ちに足をどけなければならない。知らなかったと言って許されるわけではない。
また無知で粗暴な人が、相手を傷つけるために根拠のない差別をすることがある。残念ながら、これは珍しいことではない。としても、私は、知らず知らずの内に人を傷つけるよりはましかなと思う。彼等は相手を傷つけている事実を知っているからだ。
こういった場合、差別した当事者が逆の立場になってもしかたがないという意見が出るかもしれない。とすれば、まるで戦国時代である。
私は楽しく生きるには互いのルールが大切だと思う。自分が楽しく生きるには、大抵相手もまた楽しいことが必要である。一般に、人は人生を豊かに楽しく生きようとするだろう。
様々な趣味や学問をするにしても、このテーマからは逃れられまい。それぞれの分野で好きなことをしているとしても、根をつめてやっていると、周りからは苦しんでやっているようにしか見えないことがある。が、本人にとっては、なんでもない。
各人が夢中になっている自分に開放感を感じることもあるだろうし、細かな過程を楽しんでいることもある。また、生れてくる結果を想像することだってなかなかだ。
何かの義務感や使命感などで、心ならず楽しめていない人も、その行動の根には楽しく生きるという目的があるだろう。崇高な目的があって何かの修行に励んでいる人でも、今やっていることの意味を知り充実しなければ、長く続けることはできまい。
もっとも優先したいのは、知らないことがそれだけで人を傷つけることがあるのだから、謙虚な姿勢で学び続けるということである。私がこの根幹たる知性を生涯の宝として実際身につけているかどうか分からない。気をつけて、互いに、楽しくやろうではないか。