好太王碑文(11) -高句麗と倭國-

久しぶりに碑文を継続する気になった。前回から、一年以上の時間がたっている。歴史学には確かに一方で、今を透かして過去をみるという意味がある。が、これには妥当性のある史料をあるがままに読むことが前提にあるだろう。
碑文(6)で考えてきたように、「倭」の用例中に「倭國」と読める例がいくつかあった。これがどのような実体を持つのかを探る準備として、まず列島の通史に位置づけてみたい。
『三國志』東夷傳馬韓條に「桓靈之末(146年-188年) 韓濊彊盛 郡縣不能制 民多流入韓國」とある。すでに二世紀後半あたりに、「韓濊」が強盛となり、楽浪郡などから民衆が韓国などへ流亡することが多くなっていた。
「建安中(196年-219年) 公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡 遣公孫模 張敞等收集遺民 興兵伐韓濊 舊民稍出 是後倭韓遂屬帶方」
(「公孫康が屯有縣以南の荒地を帯方郡とし、公孫模や張敞等を遣って韓国に流入した遺民を集めようとし、兵を興して韓濊を伐ったが、旧民は少数しか現われなかった。この後、倭・韓は帯方郡に属するようになった」)
後漢代の末になると、公孫康が楽浪郡屯有縣以南を帯方郡として、旧民を集めようとしたが、うまくいかなかった。これが倭・韓が帯方郡と深いかかわりを持つようになった契機であり、史実と考えてよさそうだ。「是後」を「興兵伐韓濊」と解すれば、倭と帯方郡とのかかわりは設置直後まで遡れる可能性がある。つまり「倭國大亂」後、卑彌呼が共立されて王だったあたりまで遡れるのではないか。魏が「帶方郡」を倭国への基点にしていることからもこれを傍証できる。
『魏書』東夷傳の倭人条に「郡使往來常所駐」とあり、倭国との冊風関係が緊密だったことがわかる。だが、魏が弱体化し旧楽浪郡・帯方郡などの実効支配が不可能になるにつれて、高句麗がこれらへ侵略を始めた。『高句麗本紀』美川王紀によると、
1 「十四年(313年)冬十月 侵樂浪郡 虜獲男女二千餘口」
2 「十五年(314年)春正月 立王子斯由爲太子 秋九月 南侵帶方郡」
などとあり、高句麗は玄菟郡および遼東にとどまらず、楽浪郡及び帯方郡を侵略している。これに対し、「倭韓」が帯方郡の領有を主張したのではなかろうか。
倭国についていえば、卑彌呼が「親魏倭王」の立場にあったから、これを継承する者たちが晋代になっても旧帯方郡への権益を有していると考えただろう。『宋書』倭國條に掲載されている倭王武の上表文「而句麗無道 圖欲見呑 掠抄邊隷 虔劉不巳 毎致稽滯 以失良風 雖曰進路 或通或不」が、高句麗による帯方郡侵略まで遡れるようにも読める。
これ以後、高句麗と倭・韓の激戦が繰り返されることになり、好太王碑文に「倭賊」「倭寇」「百殘」「科殘國」などの名で登場するようになったのではないか。

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