自由ときまま

周りに定年を迎える人がぼつぼつ増えてきた。長年宮仕えをしている人は首を長くして、その日の来るのを待っているかもしれない。年金の関係で、もう数年働いて穴埋めをする話も聞く。
自由と「きまま」は熟語としても使われており、同義とまではいかないとしても、類義であることは間違いない。五十を過ぎて「天命」を知り、この世の約束事をすっかりこなして、きままに生きていくことができればおおいに結構だ。ところが、私にとってこの世は身を縛ることばかり多くて、幾ら張り切っても、こなすどころではない。
自由な精神が大事と言っても、霞を食っては生きて行けない。「衣食足りて礼節を知る」という観点からすると、家もあり、それなりに食っていけることが一大事だ。この上で、決まった時間に通勤ということがなくなり、自分の好きなことができるとすれば、やはり定年はかなりの魅力である。
私は、若い頃を含め、何度かサラリーマンを経験し、組織の一員として働いたことがある。うまく機能すれば組織は大きな力となるし、自分の力が生かされていると実感できれば、組織人として生きることも悪くない。私も、ささやかながら社員として働くことの喜びを感じることはできた。
他人事ながら、定年後はこれに代わるものが必要になるような気がする。自分の趣味がもっぱら個人にかかるものであれば、充実した気持ちも長続きしないと思われるが、如何なものだろう。
私の場合、田舎で暮らすことを選んだあたりから、自営業でやっていくことになった。今考えれば、私の選んだささやかな自由というやつかもしれない。ただ一人でやっていくには、不安なことも多く、それなりの力と運が必要だ。
田舎でも、なんらかのものを親から受け継いで自営業をやっていくのと私のように徒手空拳でやるのとでは結構な差がある。そんなことは、身よりもない所で暮らすことを決めたときから分かっていた。
豊かな生活からはほど遠いとしても、自分のやりたい仕事をやって、それなりにライフワークもこなしていけるから、決して不満があるわけではない。むしろこのような気ままな生活がこれからも続くことを期待している。
無いものねだりをしても仕方がない。艱難辛苦が苦手な私であるから、浮草のように生きながら、これからも何とかやっていければ幸いである。