雲のたなびきたる
いくら千変万化だとしても、この歳になると、雨や雲にいちいち新鮮な印象を受けることはほとんどない。
先日、例のごとく孫と豆バスに乗って中坪の方を走っていると、尾崎へつながる山々の中腹あたりで、細い雲が連なるようにたなびいていた。ここらあたりだと、雨の上がるときや雨の合間に浮かんでいて、さほど珍しいものではない。
ところが彼は大阪に住んでおり、どうやらこういう雲を見たことがない様子である。雨の日に子供を連れて外へ出ることはさほどなかろうから、彼にとっては、バスの中から運よく自然の造形を一瞬目にすることができたことになる。如何にも不思議そうに見て、例のごとく、なぜそうなるのかを尋ねてくる。
私にとっては見慣れた風景であり、当然のものとして意識の上にあがってくることは稀だから、虚をつかれた。
目を凝らしてみると、細い雲がよどんだままぼっかり浮かんでいるようで、背後の山が透けて見えるほど薄い。地上と上空の空気にあまり湿度や温度に差がなく、空気が流れていなかったのだろう。
私には僅かとはいえ山仕事の経験があり、急に降られたり、急ぐ仕事を雨の合間にするときなどに見かけた光景である。
経験からすると、薄い雲の中とは言っても相当な湿気があり、視界もよくない。雨が上がるときにはかなりの速さで上昇し、ひどくなる時には雲が厚くなってあたりが急に暗くなる。雨のさ中なら、雲の中にいるようなものだから、殆ど雲を感じることはない。雨の合間に一瞬現れるだけである。
あの雲は、雨上がりが近いため厚い雲が上昇してしまい、残ってよどんだ湿気が霧状になってたなびいていたものだろうか。標高ならかなり高いとしても、山の立ち上がりがさほどでないから、中腹といっても手がとどきそうなぐらいだった。
いつもなら、雲は山の上にある。『枕草子』の「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる」はよく登場する文であるが、「山ぎは」は山上と空気の接する部分だろうから、「紫だちたる雲」は山の上にある細くすじ状になったもので、晴れを予感する。たなびきたる雲と言っても、彼が見たものとはまったく異なるわけだ。
普段なら、目にしても言葉にはならない景色と言ってよいかもしれない。私一人では目に入っても何となく消えていく雲が、子供の新鮮な目を通すと、意識に上がってきてなんとなく言葉になるということだろう。
それにしても、あの雲は久しぶりに幻想を抱かせる態だった。