極南界(2) -「界」の用例-

『後漢書』倭条に記される「倭國之極南界也」は列島古代史の根幹にあたる文章で、金印の読み方にかかわる。様々な観点から検証して見なければならないが、ここでは東夷傳に現れる「界」を検討することによって、できるだけ「倭奴國」および「倭國」の具体像をあぶり出したい。東夷傳には次の六例がある。
1 「界南接挹婁」(東沃沮条)
2 「其俗重山川 山川各有部界 不得妄相干渉」(濊条)
3 「其南界近倭 亦有文身者」(韓条)
4 「辰韓耆老自言 秦之亡人 避苦役適韓國 馬韓割東界之地 與之」(韓条)
5 「自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里」(倭条)
6「建武中元二年(57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」(倭条)
既に『説文』入門(54)で『三國史』魏書東夷傳の「接」をみてきた。同烏丸鮮卑傳で国境を「接」で表していない点をもう一度確認しておきたい。遊牧ないし放牧を生業の中心とする種族は境界があいまいで、農業国家のようにその境界が国家の生命線になることは稀である。
この点『後漢書』烏桓鮮卑列傳でも同じと考えてよく、匈奴にしてもその勢力を広げることには益があったとしても、一寸刻みで領土を欲しがるわけではなかっただろう。この意味では、「接」「界」は共通した使われ方をしている。
1では東沃沮と挹婁、2は濊の部と部、3は馬韓と倭、4は辰韓と馬韓がそれぞれ界を接しており、山川などの自然地形を利用して、実際に種・部ないし国の境があったのではないか。
5は韓と邪馬臺國を中心とする「三十許國」に境界があった。韓条に「馬韓在西有五十四國 其北與樂浪南與倭接」とあるから、このゆるやかな連合国家には西北に馬韓と界があったことになる。「去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里」の文からすれば、「其」が「三十許國」ないし「邪馬臺國」と解せるから「邪馬臺國」までは「萬二千里」で、同様にその西北の境界にある「拘邪韓國」に至るまで「七千餘里」であって、「拘邪韓國」は「三十許國」の一つと読める。
6は「倭奴國」が「倭國」にあって、「倭國」はそれ以外とに境界があったと考えられる。
海峡を挟んだ九州北岸と南韓だけに勢力圏が限られるのであれば、「北界」および「南界」で表されるだろう。だが、ここでは「西北界」であって「北界」ではないから、方位の中心がどこにあるのかはっきりしないとしても、東北方向にも勢力圏があったと読めないか。
確かに南は「極南界」であるからこれ以上は考えられない。だが、范曄には「西北界」に対し「東北界」も念頭にあったと解したいのである。

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