銅鐸拾遺

文章が長くなってコラムの態をなさないのは困る。限られたスペースに少しばかり情報を盛ろうとすると、思いのほか冗長になってしまう。
今回は、書き残したテーマで気になっている点を二つ。一つは銅鐸の源流で、もう一つはその栄枯盛衰である。
銅鐸の祖形を探ることは難しい。朝鮮式の小銅鐸ないし馬鐸を原形とみる説がある。これらは初期銅鐸と比べても小型で、言わば民生用である。これに対し、『説文』入門シリーズで、『周禮』『禮記』から鐸などの大鈴が軍事用だったことを示してきた。また『説文』でも、やはり軍用と定義されている。これらから、私は銅鐸をその音で兵の進退を指示する指揮具とみている。
本邦で別の用途に転換したとも考えられるが、道具は本来その背景にある生活様式や文化観によって形や機能が決まる。よほど状況が変わらない限り、その道具を持ち込んだ人が別の目的に用いることは無かろう。これとは系統の異なる者が異なる用途で用いたのであれば、その証明を十分しなければならない。
第二点について、一般に銅鐸は「弥生時代」の重要な遺物と考えられている。が、私は弥生時代がどんな時代なのか知らない。歴史は人を作る過程であって、人が作った道具や材料で時代を区分することは最小限にとどめなければなるまい。
文献史料に載らない考古史料を歴史学に取り入れることは容易でない。あくまで仮説であることを心に刻んで銅鐸の盛衰を三期に整理すると、
1 実戦具であり、小国家間における小規模の争いで使われた。その結果、敗者側が再起を期して他の武器と共に埋蔵しただろう。数にもよるが、王権はさほど集中されていまい。この場合、『後漢書』倭条の「邪馬臺國」が抜きんでた大国とは考えにくい。紀元前後より前を想定している。
2 大型化した銅鐸が王の指揮権を象徴しているとすれば、既に小国家における王権が確立されているだろう。これがまさに「倭國大亂」前夜の状況だったのではないか。この場合、「倭奴國」が有力であったとしても、各小国家の単位を崩せなかっただろう。一世紀中頃から二世紀中頃まで。
3 大乱以後、共立とは言え、王とそれを支える国家機構と思しき組織が「倭國」で誕生する。また、これと対抗しうる「狗奴國」にも王がいた。この時点で、統合の王権が徐々に確立され、各小国の王が存在できなくなる。私はこれが銅鐸の消滅につながったと推察している。
他方で1メートルを超すような銅鐸は、かつての価値観を継承しているとしても、連合国家の王権を象徴しているかもしれない。二世紀末から三世紀前半あたりか。

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