任那日本府(3) -新羅の国名-

私にとって古代新羅は難解で、纏まっていないところが相当ある。近年清の張庚による『諸番職貢圖卷』という史料が発見された。その中に「斯羅國」条があり、次のように記載されている。残念ながら、一部読み方が定着していないところがある。
「斯羅國 本東夷辰韓之小國也 魏時曰新羅 宋時曰斯羅 其實一也 或屬韓 或屬倭國王 不能自通使聘 普通二年 其王姓募名泰 始使隨百濟奉表獻方物」
私は、大義名分論から「或屬韓 或屬倭國王 不能自通使聘」と読んでいる。今回は国名を中心に取り上げてみる。
『諸番職貢圖卷』は『梁職貢圖』の模本だが、原画を描いた人物から考えて、梁(502年-557年)の公式文書に近い価値がある。この点から、梁代にも「斯羅國」と呼ばれていたことは確かである。
ところが『好太王碑文』では「新羅」とされている。また『宋書』倭國条の四例および『南齊書』『梁書』で倭王の除正名の一部としてやはり「新羅」であるし、更に『梁書』では「新羅」条として立伝されている。つまり、対外史料では、四世紀末から六世紀前半まで例外なく「新羅」であって「斯羅」ではない。
他方、『新羅本紀』智證麻立干本紀に国名に関する記事が載っている。
「四年(503年)冬十月 羣臣上言 始祖創業已來 國名未定 或稱斯羅 或稱斯盧 或言新羅 臣等以爲 新者德業日新 羅者網羅四方之義 則其爲國號宜矣 又觀自古有國家者 皆稱帝稱王 自我始祖立國 至今二十二世 但稱方言 未正尊號 今羣臣一意 謹上號新羅國王 王從之」
群臣の上言によれば、国名が定まらず「斯羅」「斯盧」「新羅」などと称していたが、以後「新羅」に統一したいとし、王がこれに従うことにしたと云う。この記事は、『諸番職貢圖卷』の発見によって、信憑性が更に高まっただろう。
これから私は、記事通り、503年に公式名称として「新羅」を名乗り始めたと解している。そして普通二年(521年)には、百済に随い、恐らく「新羅」として外交を始める。正史である『梁書』は「魏時曰新盧 宋時曰新羅 或曰斯羅」としながら、梁当初に遡り「新羅」条として立伝した。他方『職貢圖』は同時代史料であり、当時通用していた「斯羅國」をそのまま採用したのではないか。
『職貢圖』の「魏時曰新羅 宋時曰斯羅 其實一也」は『梁書』新羅条とやや異なるものの、単なる流伝ではなく一次史料であって、劉宋から南齊及び梁代半ばまで南朝では「斯羅」として伝わっていた証拠にならないか。とすれば、『宋書』倭國条などの除正名に見られる「新羅」は高句麗や倭国から呼んだ国名を追認しているとも解せる。
「或屬倭國王」は、『好太王碑文』の辛卯年条と考え合わせ、少なくとも四世紀末から六世紀初頭まで、『宋書』倭國条などの記載通り「任那」「加羅」と共に「新羅」もまた倭国に属していたことを示す。この点は、再論するつもりである。