島谷用水(1)

例によって大きなテーマにしてしまったかもしれない。私にとっては、裏を流れている疎水であり、なじみがある。
郡上八幡旧市街は大きく分けて、北町と南町と呼ばれることがある。これは吉田川が、長良川との合流地点まで、八幡をほぼ東西に貫いているからだと思う。私が住んでいるのが南町で、城下町の伝統が色濃く残っているのが北町である。城南町という名はこの呼び方からすればすんなり受け入れられる。同町は吉田川の左岸になり、南町の西の端にあたる。この例からすると、東町という町名がまだ腑に落ちないが、今回は触れない。
島谷用水の原形が常友の街づくりに遡れるとすれば相当なものだ。だとしても、現在の姿とはだいぶ違っていただろう。一部乙姫川から取水したとも考えられるし、赤谷川の水を一旦貯めて使った可能性も考えられる。
江戸前期には街の形になっていた塩屋町や新町を除き、南町はほぼ田園地帯だった。近年、大規模な下水工事をした時に、新町で古い用水路が確認されている。現在では、側溝として水が二分されているように見える。用水がこれに淵源するのであれば、枡形に関連して軍事用、田畑への水利、防火及び下水などの用途が考えられる。
時代によって、その主たる用途に移り変わりがあったと思われる。明治以後はさすがに軍用としては使われなくなっただろう。しかし、徐々に田畑が減ってしまったとしても、まだまだ農業用水が必要なところもある。また近ごろ愛宕で大きな火災があった時には、水が足りず、用水までホースを伸ばしたと聞いている。
郡上は江戸期から繭糸の産地で、明治以後に糸を紡ぐ工場がこの水を使っていたと云うし、かつて小規模ながら発電用としても使われたらしい。
現在の島谷用水は八幡大橋のほぼ直下から始まる。昭和十四年竣工と銘記してあった。名前の由来は、取水地点が島谷の東端にあり、水路が島谷を横断しているあたりか。大橋の下手に堰堤をつくり水位をあげて取水しているところからみると、堰堤と一体で工事された可能性がある。あるいは水路を拡張して発電用にしようとしたのかもしれない。
町衆にとっては、無論、生活用水である。さすがに飲料水は共同で井戸を掘っていたところが多かった。だが我が家でも昔は用水で野菜の泥を落としたり、障子や網戸を洗っていたこともある。またかつては心ならずも雑排水を用水に流す他なかった。今でも雨水は、水量に関わらず、用水に頼らざるをえない。また冬になると、どけた雪を流すところとなる。水量が少なくて下流で雪が詰まっているのを見たことがある。
古老に聞くと、この辺りは石組で護岸されており、ウナギや小魚が相当いたという。ところどころに白砂があって、中にシジミがいたと言うあたりは何だか夢の世界だ。
昔も今も、島谷用水は南町の大動脈なのである。