任那日本府(7) -「九十五國」試論-

これまで倭王武の除正名にある六国にそれぞれ実体があることを示してきた。
彼の上表文中に「渡平海北 九十五國」とある。一方で、これを単なる主張にすぎないとみる向きもある。だが他方で、倭国が高句麗と対峙している状況であれば必ずしも大げさとも言えないし、これを公式文書である『宋書』に掲載している意味からすれば容易に捨て去ることもできまい。そこで今回は、試みに、その構成について考えてみよう。
1 私は、日本府(1)(2)で、「加羅」を「加(伽)耶」とした。やや数合わせのきらいもあるが、『駕洛國記』の「始現故諱首露 或云首陵 國稱大駕洛 又稱伽耶國 即六伽耶之一也 餘五人各歸爲五伽耶主」から、一応「加羅」を六国としてみる。
『三國志』魏書弁辰条の「弁辰狗邪國」がこれと関わる可能性があるとしても、確かめることがむずかしい。私はこれを同倭人条の「狗邪韓國」とは異国と看做している。残念ながら、両者の系統については俄かに判定できない。今後の研究課題としておく。
2 また私は日本府(3)(4)で、『職貢圖卷』から「斯羅國」が倭国王に属していることを示してきた。同(6)では「秦韓」が「辰韓」であるとした。「斯羅」は「新羅」であり辰韓の中から有力になった国と解すれば、少なくとも五世紀に、辰韓十二国が倭国の勢力下にあった可能性が高い。
3 弁韓はまた「弁辰」とも呼ばれ、辰韓と関連が深い。これからすれば、弁辰韓二十四国と考えることもできるし、「辰王」からすれば馬韓の影響下にあったと解せないこともない。更に倭国の強い影響も考えられるし、相当入り乱れていただろう。
4 日本府(5)では「慕韓」の実体を「馬韓」であるとしてきた。これから慕韓ないし馬韓の五十五国が入ることになる。
5 加耶六国、弁辰韓二十四国、馬韓五十五国で計八十五国とすれば、「任那國」に十国あったことになる。
欽明紀廿三年(562年)春正月条「新羅打滅任那官家」の注に「一本云 廿一年任那滅焉 揔言任那 別言加羅國 安羅國 斯二岐國 多羅國 卒麻國 古嗟國 子他國 散半下國 乞飡國 稔禮國 合十國」となっている。『百濟本記』をもとにしているとしても、その内容をしっかり検討せねばなるまい。これは約一世紀後の記録であり、これだけでは根拠が弱いかもしれない。
私は、今のところ、ここでの「加羅國」は「拘邪韓國」、「安羅國」は「弁辰安邪國」であった印象をもっている。機会があれば、更に検討を加えたい。
以上大ざっぱながら「九十五國」は、「新羅 秦韓」が辰韓十二国及び弁辰十二国、「任那」が十国、「加羅」が伽耶六国、「慕韓」が馬韓五十五国の計九十五国とし、史実とみてはどうだろう。多少の出入りがあっても問題はあるまい。

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