『説文』入門(64) -「自」と「鼻」-

日曜日というのに雪が降っている。外に出ることもままならず、じっと籠って、これを書く。しっかり構想をねったわけでもないし、手持ちの材料が豊富というわけでもないのに、テーマを先に決めてしまった。かなり前から、『説文』で「自」を鼻とする解が気になっていたからだ。
根拠を示して欲しい人もいるだろうから、以下引用する。
「自 鼻也 象鼻形」(四篇上126)である。「自 鼻也」の解で、鼻の象形だから、まさに「自」は鼻そのものである。金文から甲骨文へ遡っても殆ど字形は変わらない。
従って「自 鼻也」がもとにあって、「自己(おのれ)」「自然(おのずから)」「從也(より)」などの義が派生したことになる。
これらから、枝分かれした義が一般化し、もとの義が廃れたので、新たに「鼻」の字が作られたのだろう。「鼻」の篆書体からすれば、秦漢代には「自」は「自己」などの義で使うことが多くなっていたと思われる。が、すっかり廃れたのがどのあたりか分からない。
引伸した中では、特に「自己」の義が派生したことに興味がある。肉刑の一つに「劓」の字形がある。篆書体では、切り離された鼻が木の上でさらされている形である。これが、人の自己同一に鼻を使った事と関連しないか。あるいは鼻を指して自分を表したような習俗が前後にあったとも考えられる。
それでもなお、『説文』には「自」が鼻の意味で使われている字が残っている。例によってフォントの問題から曖昧にしか書けないが、それぞれ尸部と言部にある。
尸部は下に「自」でつくり、「臥息也 从尸自」(八篇上426)となっている。会意字だから、鼻から息が出ていることは間違いあるまい。寝息ほどの意味だろうか。
言部は右に「自」でつくり、「膽气滿聲在人上 从言 自聲 讀若反目相睞」(三篇上187)である。形声字の解で、ややこしい。
「讀若反目相睞」だから音は相当変遷してしまっているが、「膽气滿聲在人上」の解なら、鼻息の義を伴っていたと考えられないこともない。
これでよければ、文字の一部として、「自」が鼻の意味で生き残ったことになる。古今東西どの言語でも諺や熟語などで古い用法が残るものだが、これもまた古義が字形の一部に残っていたことになる。
私はこれらから逆に、すでに戦国時代には「自」が「自己」などの引伸義で使われることが多くなっていた推測している。
他方『説文』で「鼻」は、「鼻 所以引气自畀也 从自畀」(四篇上135)となっている。「畀」(五篇上151)が気になるが、許愼は「丌(キ)」に従うとし、この上に「自」を載せた会意字とする。鼻としての「自」を更に目立たせる字形と考えているわけだ。だが、「鼻」「畀」を同韻とみて、形声字と考えることもできる。

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