方言と歴史学(9) -「戸」と「口」-

今回は「谷戸(たんど)」の「戸」に関し、この辺りにおける「戸」と「口」の用例を比較して検討してみたい。が、自信はない。
その前に、いつものように、ちょっと寄り道しよう。「戸」と「門」が関連する話である。実際どの家にも戸はあるだろうが、門ともなるとそうはいかない。ところが字形からすると、両者にそれほど違いはない。
『説文』で「戸」は「戸 護也 半門曰戸 象形」(十二篇上020)となっている。「戸」「護」は「疉韻」と呼ばれるもので、いわば韻を踏んでいることになり、声訓の一種と考えてよい。だが、これだけでは何から何を保護するのか分からない。字形の方は至って分かりやすく、甲骨文や金石に遡っても片開きの「と」を表す象形で、篆書体はさらに洗練されている。歴史学に興味ある人なら、『魏書』倭人条に「下戸」「總五萬戸」「其戸在上」の用例があることをご存じだろう。
他方「門」は、「門 聞也 从二戸 象形」(十二篇上030)となっている。「門 聞也」はやはり「疉韻」で声訓。外から敲く音や声を内で聞いたり、内の返事を外で聞いたりする場所ほどの解。門が左右の戸を象る象形字という説には軽い驚きがある。やはり『魏書』に「門戸」の用例が見られる。
さて本題にもどって「口」は、「口 人所以言食也 象形」(二篇上075)となっている。話したり食べたりする所以だから、今も昔も定義は変わらない。また象形字。
これらからすると、「谷戸」の「戸」は、「門戸」の義に近いかもしれない。とすれば、実際それぞれに鳥居などがあったのだろうか。或いは前宮として拝殿があったかもしれないし、緩やかな女人結界を示すかもしれない。
私は、高賀山信仰圏では、「洞戸(ほらど)」の用例が印象に残っている。この場合の「戸」は板取川本流と支流の出会いでよさそうだ。この他、「相戸(あいど)」(美並、洞戸)、「出戸(でと)」(洞戸)、「深戸(ふかど)」(美並)などが気になる。だが美並の場合は、必ずしも支流の口を表していないかもしれない。
那比の谷戸には大杉があって、「神戸木(かんどぎ)」と呼ばれ、後にこれが地名となったらしい。「神戸」そのものは那比川の対岸にある。那比にはこの他、「橋戸」「桜戸」「室戸」「豆戸」などの小字地名があるそうだ。
それにしても、「戸」が「門戸」「戸口」を表しているとすれば、郡上ではやや珍しいのではないか。というのは、この辺りでは「戸」ではなく「口」で表す所が多いからである。
口の用例では大別して、「口明方」「口神路」など地名の前につくものと、「木戸口」「歩岐口」(大和)、「露洞口」「中洞口」「干谷口」(美並)、「那比口」(八幡)など後につくものがある。前者の「口明方」は奥明方と比べると、「前面にあたる」「中心地域に接する」などの義か。後者はいずれもそれぞれへの入り口と解してよかろう。
やや性急だが、やはり瓢岳及び高賀山信仰圏に「戸」が集中しているように思う。