瓢岳(9) -那比の新宮(中)-
今回は、新宮の洞へ入る谷戸(たんど)の近辺にあったとされる「大日堂」を再度取り上げる。ここまで読み進めてくれた人なら、谷戸が瓢岳ないし高賀山信仰の入り口であって、聖なる地との境界を示すことは分かっていただけると思う。
この谷戸は、伝承に関する限り、「牛返し」と関連しそうだ。『傳記』には「從四方麓口牛不入奧依之号牛返也矣」とある。近世には「六社權現七谷戸」とされ、ここからは牛が入れなかったと云われている。
文治二年(1186年)四月の奥書がある『高賀宮記録』によると、高賀宮の手前にある谷戸で、「希に牛がいるとしても、谷戸に牛戻し橋があり、そこで牛を帰してしまう」とある。
粥川村の谷戸には大正時代まで粥川右岸に割木の橋があって、「牛返し橋」と呼ばれ、ここからは牛を入れることができなかった。
新宮の二間手に、やはり谷戸に関連して、牛に関する話が伝わっている。なんでも、この辺りで牛が動かなくなってしまった。どうしても動かなかったが、仏さまを川へ投げ捨てると、やっと動くようになったという。
その仏さまの名前が気になるところだが、何かタブーに触れるような気がして、しばらく確かめることができなかった。意を決し聞いてみると、やはり「大日如来」だった。だとしても、いつごろからこの話が伝わっているのか確かめることは難しい。
「大日堂」は『傳記』に記載されており、本尊を投げ捨てられた後そのまま存在したとは考えにくいから、いくら零落していても十四世紀中ごろまでは何とか耐えられただろう。
他方『星宮大權現之記』では、「大日如來姥御前 高賀山本宮寺也」となっている。同記は寛文元年(1661年)に書かれ、元禄八年(1695年)の改写とされている。
史料上でも伝承でも「大日堂」の位置は新宮の二間手だから、本宮と関連するような行文は腑に落ちない。これは、既に十七世紀の段階で「大日堂」が実在しなくなっており、新宮との関連を知る者がいなくなったことを示さないか。
以上から、那比における「大日堂」はすでに戦国時代あたりですっかり没落してしまったとも考えられる。
私は新宮における大日如来を白山信仰との脈略でとらえており、大日信仰の没落はまた白山信仰の影響が薄れていく過程を示すと解している。
前回、新宮が悪鬼の最も跋扈した地であると推察した。『高賀宮記録』に、「岩屋は悪魔が住んでいたため、また住み着くことがないように社を建立し、神々を鎮座させて高賀山新宮大明神と号した」と読めそうなところがある。
那比における悪鬼の制圧が大日信仰零落の過程と重なっており、瓢岳信仰が高賀山のそれとして包摂される前の姿がここに見られるのではあるまいか。