帰属

なるだけ清く正しく生きようと思うけれども、浮世ではなかなか難しい。自分を放し飼いにしてきたからだろうか。
私の場合、おおまかには、若い時から生き方の骨組みは決まっていたように思う。とは言え、人に誇れるテーマでもないし参考にしてもらえるとも思えない。もっぱら愚かな自分を鍛えることに収斂する。
だが実際には、毎日想定外のことが起こるので、その時々に選んだ行動が積み重なって人格が形成されてきたように感じる。
今思うと、私には雑多な側面があると認めざるを得ない。この歳になっても、自分がどんな人間なのか、殆ど何も分かっていないありさまだ。
むしろ周りにいる人がいろいろ見比べて評価するのが案外的をついているのかもしれない。
自分ではまとわりついてくる日常を幾分かずつでも整理してきたつもりだが、生きていれば毎日垢も出てくる。また自分の本貫や、かつての家業とか宗派など自分を縛っていたものが存外どこまでもついてまわる。
結局落ち着くところがこういった一人の力ではどうにもならないところを土台にする他ないなら、それはそれで文句は言えないような気もする。不自由なこともまたしっかり受け止めれば自由の妨げにはならないものだ。
幸いと言うか、私には誇るべき門地も金もない。個人としての稼業はあるけれども、特定の産土神や弔ってもらう宗派はない。私にも故郷はあり、頼めば仲間にしてもらえるかもしれないが、そんな気は全くない。
となると、自分の属するところが見当たらないのである。ここで墓地を探し、死後しばらくでも落ち着く場所を確保することに興味すら湧かない。この世でもあの世でも、どこにも属したくないのかもしれない。
それでは根無し草ではないか、と懐疑の目を向ける人が多いだろう。自分はどうあれ、子供をもうけてこの世に生きてきた以上、誰かの子孫であることを尊重しないのであれば、新たな祖になる他ないではないかと言うわけだ。
私がこの世に生きているのは、家系を保つためでもないし、祖に納まるためでもない。帰属を迫る様々な浮世の価値観を認めたからでもない。
歳をとって角が取れてしまうことは口惜しい。ここまで来て、生き方を変えるわけもいくまい。たとえ似た者同士として十把一からげにされようとも、私には秘めたる思いがある。
私は、その都度鍛えてきたカテゴリーを基にして、余命を思うままに生きたい。浮草でもよいではないか。