瓢岳(11) -那比本宮(上)-

本宮をこのシリーズに入れるのは踏みとどまるべきかもしれない。私は、那比本宮を瓢岳信仰ではなく高賀山のそれに分類している。両者を別ものと解しているが、まだはっきりした線引きはできていない。ここで扱う気になったのは次の二点から。
1 史料に大谷村を粥川村へ、岩屋を新宮へ改名した一連として藤谷を本宮にしたと記されている点。
2 本宮にはそれとして殆ど史料がない点。
創建当時の本宮は山崩れによって埋没したという。現在の社から宮ケ洞谷の上流に旧社殿の跡があったと伝えられている。
『巖神宮大權現之傳記』では觀應二年(1351年)まで異常があったとは思えないので、流失はこれ以後だろう。現在の社殿は天正年間に遠藤慶隆の再建したものが基本だろうから、この二百年あまりの間に埋没したと考えられる。
『高賀宮記録』の應安二年(1369年)六月二日条に大洪水があり、「當宮の外六か所の神社諸堂も同時に悉く相流れ」と記録されている。この「當宮」は高賀宮だろうから、「他六か所の神社諸堂」に本宮が入っている可能性がある。高賀宮と本宮は峠を挟んでいるが、直線距離はさほど離れていない。
旧社殿の伝承地につき、地形を検討した上で、今の社から三百メートルほど遡った所に比定する説がある。近辺は三本の谷が合流する地点で、主谷の左岸が大きく抉れており、傾斜がなだらかな皿状になっている。山体崩壊と言ってよいほどの規模で、滑った堆積物は東北方向へ数百メートルに及んでいる。旧社が地すべりの起点辺りにあったという点は同意見だが、修験の道が稜線へ行きそうな所なので、尾の直下にあった可能性も考えられる。郡上で場皿、勝皿などの地名は抜けた後が皿状になる地すべり地名のようだ。この他、「ウメ」「ヌケ」などの崩壊地名の視点からも再検討する必要があるかもしれない。さて、『傳記』では藤谷に関し次の四例が記されている。
1 「而或時居岩屋洞藤谷 而遠眸彼大嶽」
2 「岩屋洞深山 藤谷絶頂彼大嶽住池」
3 「藤谷改号本宮」
4 「二閒手大日堂宇婆御前宮 次高賀山本宮寺 兒宮飛瀧大權現 本地阿弥陀如來 寶珠石座不動尊」
1は藤谷から「彼大嶽」を「遠眸」するから高賀山を指していることは間違いあるまい。2もまた藤谷を上り詰めると頂に至るから、この洞からは高賀山へ向かうと考えるほかあるまいが、「池」が気になっている。高賀山の裏谷に五メートル四方の池ぐらいは今でもあるが、こういったものに当たるかどうか。3は既に紹介した。4は修験のコースを示しているだろう。「兒宮飛瀧大權現」は高賀山へ向かう稜線上の「峯稚児神社」とも解せそうだが、「飛瀧大權現」の名から、谷筋にあってもよいような気がしている。

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