八幡の由来
思いついたので書くことにする。ここで言う八幡は郡上八幡のそれであって、その由來には二説ある。
一つは郡上踊りの「かわさき」で「祭り見るなら祖師野の宮よ、人を見るなら九頭の宮」と歌われる「祖師野の宮」である。もう一つは長良川沿いに遡上してきたと考えられ、流れが不明なものである。
前者については、さらに「踊らまいかよ祖師野の宮で、四本柱を中にして」とある。今も幣殿と拝殿にりっぱな四本柱が立っており、これが祖師野八幡宮であることは間違いない。郡上八幡との関連では、和良筋から伝わったと考えてよかろう。
後者については、小川屋喜兵衛という人が幕末の嘉平四年(1851年)に発刊した『濃北一覽』(卷之五)の中に次のような話が載っている。
武蔵権守藤原頼保が大鷲を探す旅で、承久三年(1221年)あたりのことになっている。彼は、供人三十四人を召し連れ、美濃国の長良川に到る。そこで鷲の羽根が流れているのを取り上げると、四尺七八寸もある石打羽で、その上に紺字で鮮やかに八幡の文字があった。神霊と思い押し戴いて郡上へ上り、小野村に止宿して、その白羽を八幡宮の鎮守にすべしとしてその所の岩穴にさして置いたという。現在、小野八幡神社はこの説を公式の由来として採用しているように見える。
だが、仮に藤原頼保が実在としても、話が途方もない。東乙原の鴻見洞の話を含め、私には貴種による命名譚の印象が強い。
その後、小野村の百姓がこぞって牛首山(城山)の峯に八幡神を勧請し、「堂」を建てて祠った。これにより地名を八幡と号すようになったという。遠藤盛数が新城を築く際に、今の地へ移したとされている。「堂」「祠」の字に疑問があるけれども、後半部分は史実に近いかもしれない。
遠藤氏と祖師野八幡宮とは縁が深い。同宮は鎌倉鶴岡八幡神を勧請したもので、「政所遠藤」と記された十五世紀に遡る棟札がある。また、慶隆が再度八幡に入ってきたのもやはり祖師野を経由して和良筋からである。
これらからすると、和良郷ないし気良郷を通して、他にも東濃とゆかりのある人々が相当入って来たように思われる。機会があれば、この点にも触れてみたい。
城下町として本格化したのは常友の時で、このあたりで地名としての八幡が定着したのではあるまいか。
「かわさき」の文句からすれば、江戸時代を通して、踊っている人がみな八幡宮と言えば祖師野のそれを思い浮かべたことは疑いがたい。この宮が原形であって、遠藤氏の勢力伸長に伴い小野八幡神社が整備されたと感じていたのではあるまいか。
郡上南部では、熊野信仰が下火になってきた南北朝の終りから戦国時代にかけて、武士団の依り代として八幡信仰が有力になってきた傾向を読み取りたい。