八幡の由来(補)

史料をもとに、八幡の用例をもう少し検討してみよう。前回は、遠藤盛数が新城を築く際に八幡神を小野の地へ移したのは史実と考えてみた。このあたりの事情を確認したいが、楽しんでいただけるだろうか。
1 応永十六年(1409年)九月十一日、大桑の城主土岐新左衛門長光一族が郡上を攻め取ろうとして、手勢を気良郷と和良筋へ二手に分け攻めてきた。これに対し東氏が「山田の庄」に陣を構えたとあるのは八幡のことで、当時は人家なしの状態であったという。気良郷からの軍勢に対し、東は「小野山より鶴佐瀧山」に陣所を構えたとある。この時点では、山田庄小野山と呼ばれていたらしい。(『濃北一覧』卷之六)
2 天文十一年(1542年)、東常慶が「八幡犬鳴山」に東殿山城を築き、移った。(同卷之七)
この場合の八幡は、史実とすれば、山田庄八幡ということになる。既にこの段階で八幡神が小野山へ勧請されており、「八幡山」として知られていた。この頃も八幡の町はなく、地侍が所領を構え東家旗下にいたという。犬鳴山が吉田川左岸にあることは確かだとしても、東殿山城が現在の比定地より東に寄り過ぎており、意外な感じがする。「犬鳴山」が大地名とすれば、八幡と呼ぶのは広すぎて不審だが、たまたま一族が両岸をその勢力下にしていたのかもしれない。
3 永禄二年(1559年)、盛数が「山田庄八幡山」を砦にして東殿山を攻め落とした。盛数が「八幡山」を根拠地にしたのは、これに先立って小駄良の和田氏を討ち、小駄良筋を確保しやすかったことが背景にあるかもしれない。(同卷之七)
4 盛数は、東殿山を攻め落とした後、「山田庄八幡山」に新城を築いた。(同卷之八)
この時に、八幡神を小野に移したことになる。現在も八幡旧市街に白山神社がないのは、遠藤氏が東氏のみならず長瀧の勢力を駆逐して新たな地盤を築きたかったことに淵源するのではないか。
5 この後、慶隆の代では「八幡山」「八幡城」などの用語が一般化していたと思われる。城下町も徐々に整備されていたと想像されるが、何と呼ばれていたのか分からない。八幡城下あたりか。
6 残念ながら常友の代で大火があり、城下が焼けてしまった。本格化した城下町ができるのはこの後で、八幡町と呼ぶにふさわしい体裁になったようである。
土岐一族の侵略を食い止め、山田の庄で合流して「酒汲みかはし、万歳を歌ひ、行列をたて」て篠脇へと引き上げたとある。私は、小野山に八幡神を勧請したのはこのあたりと想定している。遠藤氏がこれに関わっていたのは間違いあるまい。祖師野八幡宮に「応永二十二年(1435年) 政所遠藤但馬守」の棟札があるし、その社殿建造(応永二年 1415年)にも関与していそうだ。
八幡という地名は、この流れからすれば、盛数が「八幡山」を砦にしたあたりが画期になっているだろう。「八幡犬鳴山」も傍証となるかもしれない。この後、遠藤氏が有力になるにつれて八幡山、八幡城が広まり、そして慶隆から常友あたりで八幡という地名が定着していったのではないか。

前の記事

八幡の由来