高賀山(7) -稚児宮(下)-

今回はショッキングな伝承を二つ。高賀山信仰に関してはいずれも負の遺産と考えてよいかもしれない。
一つは峯稚児神社に残る話である。藤原時平に陥れられ醍醐天皇の后と菅原道真がその地位を失う。恨みを抱いた前后が新たな后との間に生まれた皇子を高賀山の賊にさらわせ、稜線にある大岩の上で干し殺しにした。これを討った高光が鎮魂のためその岩の上に峯稚児神社を建立したという。登場人物は全て実在だが、根拠があるのかどうか。
もう一つは、朝吉仏の話である。上保生まれの朝吉は子供の時に天狗につれてこられ、新宮の山で天狗と共に七年暮らした。無事勤めて天狗から解放され、助かったことへの感謝と同じことが起こらないよう世に警鐘を鳴らすため石仏を安置した。口新宮にある観音様の社から三百米ほど上にあったという。
彼は、使い走りの小僧をしたおかげで、少々の峯や谷なら飛び越えられると言ったそうだ。
上保と言ってもはっきり場所が特定できないが、この辺りでは大和から白鳥方面を連想する人が多い。白鳥から少し北には長瀧寺があった。越前の平泉寺と共に白山信仰の拠点である。
稚児の男色に関していくつか史料が残っている。この弊風は平安時代の寺院に起こり、中世においても武士及び禅僧の間で流行したが、また山伏の間にはびこっていた。
『修験道史研究』(東洋文庫 和歌森太郎著)によると、十三世紀後半に成立したとされる『沙石集』の「天狗之人真言教事」(巻八の十一)に、山伏が伊勢にあった山寺の稚児を誘拐した話が載っている。
また白山山伏の妻帯がうかがわれる史料がある。『蔭凉軒目録』明応二年(1493年)三月十六日條に「平泉寺法師大半具妻也」と云う。いずれにしても伝承に根拠がないわけでもないことになる。
前者はまさに鎮魂のため峯稚児神社をつくったことになるし、後者については自らのつらい経験を繰り返さないよう石仏という形で記念したことになる。
朝吉仏の話で時代を特定するのは難しい。ただ、天狗の嫌がるのが「山の尾根を汚すこと、人間どもが念仏を唱えること」だと伝わっている。
「山の尾根を汚すこと」は尾根にある大岩で凄惨な事件があったことを示唆しているかもしれない。念仏に関しては、郡上一帯で起こった天台から真宗への改宗に関わっていそうだ。鎌倉代まで遡れないことはないとしても、蓮如に関連して十五世紀末葉あたりが顕著である。
いずれの伝承も捨てがたい。前者についてはそのルーツを見極め、後者については上保と那比の方言を比較してみる必要があろう。
私は繰り返し、峯稚児神社の大きな岩や新宮が巖神宮と呼ばれていたことを思い浮かべる。また稚児山に関連するのかどうか、川佐の神明神社は天慶年間(938年-946年)の創建といわれ、もと岩居神社と言った。岩間山の岩頂に社殿があったからとされている。これらは大岩信仰の視点もまた欠かせないことを示すだろう。

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