高賀山(11) -牛頭と牛首(上)-

私は先にテーマを決めて書くこともあるし、書いた後に要旨をかいつまんで決めることもある。今回は前者の例だが、構想がはっきりしないので、どう転ぶか分からない。できるだけ分かりやすい構成にしたい。
郡上でも、やはり、中世史及び古代史の史料が足りない。あらゆる分野へ触手をのばしてテーマを拾い、しらふで議論する必要がある。これには年寄りの地道な積み重ねと批判精神だけでは足りないのであって、若い世代の新鮮な方法や感性が求められる。そのためにもある程度地ならしをしておかねばなるまい。
前回、高賀社が祀る牛頭天王を探ることからずれて、大行事に囚われてしまった。曲がりなりにも日吉大社の大行事が白山三神のそれと繋がりそうなことは示せたと思うけれども、高賀社の大行事が直接日吉大社と関連するのか、白山の影響下にあったのかを決めるのは容易でない。
これは時代層を決定する要因になりそうなので、別の観点からアプローチしてみよう。
私は「八幡の由来」(2013年9月2日)で『濃北一覧』卷五を引き、承久三年(1221年)のこととして、「小野村の百姓がこぞって牛首山の峰に八幡神を勧請し堂を建てた」と書いた。
城山には現在八坂神社があり、明暦二年(1655年)に城の裏鬼門の守りとして建立されたことになっている。かつては「天王社」「祇園社」と呼ばれた。八坂社の鎮座するのが天の洞、下を流れるのが「天の洞川」である。この「天の」を「天王」とみれば、牛頭天王を祀っていたことになるだろう。さらに『濃北一覧』の記事を認めれば、明暦のはるか以前から、これを祀る祠があったことにならないか。
この地では承久の乱と関連するいざこざは記録されていない。東氏が実際に新補地頭としてやって来たわけだから、その前後に何らかの争い事があっただろう。私はこの転宗をその一つではないかとみている。
ここでは牛頭天王の「牛頭」はまた「牛首」と呼ばれている。なぜ牛首と呼ばれるようになったのかは一様でない。慌てずに語義から遡ってみよう。
徐鉉注『説文』では「頭 首也」(九篇上002)、段注では「頭 頁也」となっている。段氏は、「頁 頭也」(九篇上001)から、「頭」「頁」を転注とみている。「自」「鼻」などの例があり彼の意見を軽く見るわけにはいかないが、ここでは伝統化された「頭 首也」を採用しておく。「蒼頭」「人頭」などが「黔首」「黎首」と並行して使われており、徐鉉らの解釈もまた可能だろう。とすれば、牛頭と牛首はほぼ同義である。
ただし本邦では「牛頭」は「ゴヅ」、「牛首」は「うしのくび、うしくび」だから、わざわざ訓で読んでいる。相当な経緯があっただろう。

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