郡上郡衙(5) -郡上郷の範囲-

これまで郡上郡衙が、四郷の中、郡上郷に設置されたと考えてきた。更に焦点を絞るために、今回はその範囲を推定してみたい。
吉田庄が設置当初の同郷を一部襲っている点については既に述べてきた。ほぼ北から吉田、小野、中野及び下田の四郷である。これが根幹になりそうだ。
私はこれらに加え、吉田川右岸では小駄良筋の一部、および五町から大瀬子までの上之保筋もその候補に入れている。
また長良川本流に関していうと、右岸にある那比村は後に山田庄へ併合された時代がありそうだが、その開拓が平安期へ遡れること、高賀山信仰との関連が深いことから郡上郷に入っていたとしても不自然ではない。
同左岸については、よく分からない。江戸期における口番所の分布が気になっている程度である。北から白谷口、羽佐古口、戸谷口に番所が設置されていたことから、それぞれの谷を登り詰めた稜線が境界であった可能性はある。
和良筋が人文地理上で郡上に含まれることは疑いがたいものの、和良川は馬瀬川と合流し、飛騨川から木曽川へ合流する。つまり長良川とは水系が異なる。私は中之保、和良保そして下之保が、東濃など別ルートとの交流があった可能性を感じてしまう。逆に言えば、口番所の位置から長良川本流と交流が深かったとも考えられるので、今後の課題としておく。
本流の下川筋に関しては、北から赤池、粥川、下田、大矢が棟札などから下田郷に含まれていた可能性がある。としても、梅原や木尾などはっきりしないところがあるので、旧美並村の全域が吉田庄下田郷に重なっているとは言えまい。
八幡と同様、旧美並村に関しても、その一部が下田郷に含まれていたと考える方がよいかもしれない。
郡上郷といっても、かくのごとく、広い範囲にまたがりそうだ。このままでは、やはり途方にくれてしまう。そこで再度吉田庄を振り返ってみよう。
『大興寺文書』で「美濃國吉田庄、吉田、小野、中野、下田郷」とあり、十四世紀後半の段階で、下田郷は確認できる。だが、吉田庄自身は『藤原忠通書状案』(保元元年 1156年)という文書で「吉田美乃國」と確認できるものの、下田郷の名はない。
従って現状は十四世紀後半にしか確認できないが、下田郷が保元代まで遡れるとすれば、がぜん中野-下田の関連が浮かび上がる。
すでに中野村から下流が下川筋と呼ばれていた点を指摘した。中野及び向中野(むかいなかの)が中之保とほぼ東西の位置にあることから、この地区が中心だったことを反映しているのではなかろうか。或いはまた、下田郷はこの中野郷から下流にあったからこそ命名されたのではないか。私は、偶然とは思えないのである。

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