民度

民度という言葉をよく聞くようになった。気になって調べてみたが、はっきりした定義はない。
ウィキペディアでは、一応「特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度」とされるものの、「明確な定義はなく、曖昧に使われている」となっている。
「知的水準」からして、何のことだかよく分からない。子供と大人のそれなのか、大人同士のことなのか。仮に大人同士としても、どの分野について言っているのか皆目見当がつかない。成熟度にしても、いったい何が基準なのか。
こういった背景のはっきりしない言葉が何故使われるようになったのか、それ自体おもしろそうなテーマだが、今回は定義に関わる点を考えてみよう。
用例をみると、日常の細かなマナーなどをみて、特定の地域に住む人々の「民度が高い」「民度が低い」などと使われる。近頃のネット上では、それほど珍しい用語ではない。「日本人の民度」「中国人の民度」など、特定の地域が非常に大きな括りで使われる例も多い。
例え一部が横柄だったりするだけでも、特定の民族や国民の民度が問題にされたりする。どの国にもマナーの悪い人はいる。これだけ比較対象が巨大であれば、各国もピンからキリまでいるだろうから、民度を量るはっきりした基準があるとは思えない。
私は、この用語の根幹に、各国が目指してきた近代化が関わっているように思う。第二次大戦後、東アジア各国は貧しさからスタートした。
日本は平和主義の下、経済を復興し、発展させてきた。中国は、殆どすべての人民がそれなりに食えるようなった。近頃は富裕層もかなり厚くなっているようだ。韓国は独立後、日本に追いつき、追い越すことを目標にやってきた。
各国で近代化の理想像が異なるとしても、それぞれ経済分野である程度成果を上げてきたと言ってよい。が、それぞれ「民度」に関して、国内事情は異なる。
日本は、ここに来てやっと、しっかりした法治を手に入れた。明治維新から目指してきた根幹である。私は阪神淡路大震災や東日本大震災などの大災害があっても法治が貫かれたことを評価している。我々は平和で楽しく暮らすにはルールが必要だと実感するようになった。
中国は、かつて、礼が細かに定義された国である。一党独裁では難しいとしても、今後、どのような理想像をつくりだすか楽しみだ。韓国は、前向きに規範や法を他国と共有できれば、更に礼節を重んじる国になるだろう。
民度という言葉が東アジアで語られるようになったのは、それなりに豊かになってきたからで、喜ばしいのかもしれない。が、これだけでは礼節は身につかないがね。