幽霊の正体

幽霊の正体見たり、枯れ尾花。常々怖いと感じていると、枯れたススキの穂でも恐ろしい。勇気を出して正体を確かめないうちは、いつまでも怖さは取り除けない。これについては、様々な場面で感じてきた。
去年の末だったか、アメリカで白人警察官が武器を持たない黒人青年を射殺した事件があった。それほど珍しい事件ではないらしい。
同じ状況で、白人青年であれば状況が異なっていた可能性が高い。白人警官によって射殺される白人青年に対し、黒人はその数十倍になると云う。
日本においても、今なお部落民やハンセン氏病患者への差別、外国人差別がある。女性に対するそれも根強い。
数年前、対馬で韓国人窃盗団により仏像が盗まれる事件があった。日本政府は条約に基づき調査と返還を要求したが、いずれも韓国政府に拒絶されている。
それ以前にも韓国人により仏像や仏画が盗まれて、韓国に持ち出される事例が多発していた。なんと韓国は盗品を国宝(韓国国宝284号)に指定し、返還要求があったにもかかわらず2001年に盗難品の「時効」が成立したという。盗品であることを知りながら、韓国政府のみならず法の番人たる裁判所もこれらを認めている。いかなる理屈を述べようとも、私にはダブルスタンダードにしか見えない。公機関がかくの如くであるから、国民に窃盗や強奪を奨励していると感じてもやむを得まい。日本へ盗品を返さないのだから盗人を正しく裁けるとは思えないし、残念ながら、韓国人による窃盗が今後も続くと考えてしまう。単なる個人の資質の問題ではない。
「反日無罪」なのかもしれないが、現状、こんな理屈が通用するのは彼ら以外に考えにくい。むろん韓国人全てがこれを支持しているとは思えないけれども、返還しないのが公の立場である。
どの国にも、犯罪人はいる。が、これが正しく法で裁かれることによってしか近代国家は成り立たない。これに感情の入る余地はない。このまま時間がたてばたつほど韓国への信頼が揺らぐ。
確かに理屈ではそうであっても、人は愛国心や好悪の感情などで、不可解な行動をすることがある。ただ、これが恐怖や差別の再生産に繋がってしまうのでは、危なっかしい関係にしかならない。一歩踏み出して、互いに理解しようとしなければなるまい。そのためには、一方のモラルを他方へ押しつけてもうまくいかないのであり、共通の規範ないし法が必要なのだ。これこそ平和の礎と言ってよかろう。
無知による恐れや植えつけられた感情によって、子や孫の代まで差別したり、されたりという悲しみを引きずってはならない。まっすぐ見ることで恐怖の正体を確かめ、互いの信頼を積み上げていこうではないか。

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