制度(2)

前回は「制」について触れ、「刑をもって制す」という用例を引いた。今回は「度」を中心に据えたいが、途方に暮れている。用例が多岐にわたるので、うまく抽出するのが難しい。こういう場合、危なっかしいけれども、私は自分の頭に浮かぶ用例から始めることにしている。まずは「度量衡」から。
「温度」「速度」「角度」「密度」などからすれば、「度」はある基準や単位を決めて、大きさや程度などを測る意味が思い浮かぶ。
「量」は「計量」「重量」、「衡」は「平衡」「均衡」などから、どちらも同じく測る意味がある。前者は容積の基準を決めて量るし、「衡」は天秤で重さを比べる。いずれも、基準が大事になるだろう。
これらからすると、「度」は尺度を表す義から「過度」「適度」などの句が生まれ、更に「法度」「制度」など様々な分野で使われる用語のもとなったのではあるまいか。
『説文』では、「度 法制也」となっている。本来、法は罪あるものを罰する意味だろうから、「法」「制」は類義で、国家や社会の定めにもとる行為をした者を罰するところまで意味が広がっている。度を越したり、落ち度があるということか。すでに原義から相当離れている。
正邪を決定する基準がどのようなものであれ、古今東西、基本ルールは勝者がつくってきた。軍事力なり経済力という力を背景にしなければ勝者になれないし、勝者でなければ法をつくれなかった。
とりわけ春秋以後は、一方で儒教が標榜されたにしても、やはりこの原則が貫かれている。これは何も中国に限らない。いかなる社会であれ争い事は避けられず、力と力がぶつかれば勝敗が決するので、ほとんど例外はない。
近代社会においても、重商主義や帝国主義などは力そのものを背景にしており、勝者に正義があると信じられてきた。資本主義にしても本質は変わらない。
これらの反省に立つのが、個人を単位とした、契約に基づく法治である。各人が持つ自然権の一部を放棄して国家を構成し、法をもって運営するという考え方だ。
1 法を限度として組織が統制される。法に合理性があれば、集団を安定して持続させることができる。法である以上、これに違反したものは裁かれ、罰則を受ける。
2 法を執行し、制度を運営するには財政の背景が必要である。
この二点は、制度を定義するのに欠かせまい。
これほど大げさでなくとも、会社の就業規則を思い浮かべれば分かりよいか。同規則は団体を運営するための仕組みないし決まりで、何らかの罰則を持つのは当然であるし、経理をしっかりして会社を存続させることが必要である。
非常に単純化したので、我田引水になっているかもしれない。

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