郡上郡衙(8) -中野と中坪-

前回は中世における中坪の範囲を想定し、上之保との境界に迫ろうとした。これから郡上郷と栗巣郷の境を透かしてみたいからだ。だが、足元の史料がおぼつかない。
『地名辞典』などによると中坪につき、「北は、中世に佐竹氏が築いたと伝える尾壺城跡のある尾壺山を境界とし、西を長良川上流、西を小駄良川沿いで市街地、南は吉田川に面する」とある。
ここで云う「佐竹氏」は佐竹東氏のことで、東氏一族と解せそうだが、いつごろ中坪へ進出してきたのか知らない。佐竹洞の名称が残っていることから、東氏が進出してきたのは確かだとしても、時期を確かめることは難しい。
「中坪郷」の西を長良川上流とする点は、五町から大瀬子あたりまで指すのかどうか。とすれば、山田庄と接することになり、上之保と対峙していた可能性が高くなる。
小駄良川沿いについていうと、今の初音一区から中坪地区を指すのみで、辞典の定義ではそれ以上遡れないことになる。ところが、是本、中切が初音二区及び三区にあたるものの、「初音」は中坪ほど古くなく、江戸時代後半から使われるようになった印象をもっている。ここでもしっかりした史料を用意できないので、切ないことに、推論を根拠にせざるをえない。
1 是本から峠越しに大瀬子までのルートがあったらしい。私はこれを中世まで遡らせている。
2 五町の裏側にあたる地区を「さいげん」と呼ぶ。中坪の中心部からみて小駄良川の向かいにあり、総合庁舎辺り。これが是本の薬師堂を建てた「西現坊」と関連しないか。
3 戒仏(かいぶつ)から稚児山を一望できる点が気になっている。戒仏は地名で、やはり薬師堂で知られており、坪谷から少し北にある。
稚児山は中之保や川佐などからほど近く、私は郡上郷の中心にあたる山だったと考えている。戒仏が「国見」にあたる地でなかったか。
前回、中切は「中坪の切り」ないし「中坪を半分に切った」と解した。後者とすれば、戒仏が上之保ないし後の気良庄への関だった可能性がある。
これに対し中野郷は吉田川の左岸にあり、交通の要衝にあたる。『遠藤家御先祖書』では応永十六年(1409年)、東師氏(もろうじ)が地内の「中野川」で土岐氏を撃退したと伝えている。「中野川」が吉田川なのか長良川なのか、それとも小さな谷(安久田川など)なのか判然としないが、大勢力がぶつかった地であることは間違いない。
それでは、郡衙のあった可能性は中坪と中野のどちらが高いだろう。『説文』によると、「野」は「从里 予聲」で形声、「坪」は「从土平 平亦聲」で会意ないし形声である。役人が漢語を理解していたとすれば、郡衙の周りは「里」だった気がする。

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