郡上郡衙(9) -有坂と中野-

現在の川筋からすると理解しがたい地名がある。有坂である。中野郷にあったと思われる郡衙の位置に関連するかもしれない。
有坂は大字で、かつては坪佐や勝皿(勝更 かっさら)を含む大地名らしいが、現在の姿からすれば想像しがたい。
前者は慶長(1604年)郷帳に九十石余りが記録されている。後者は正保(1645年)郷帳に初めて登場するようで、畑ばかりでほぼ六十石。これらに対し、有坂は郷帳に登場しないし、なかなか実態がつかめない。が、糸口が無いわけでもない。
現在の行政区分では、有坂と五町は長良川の中央線が境になっているし、ごくわずかながら尾崎、島谷との区分も同様である。ところが、合同庁舎を含む一部の境界が左岸の陸上になっている。その川側の地名が有坂なのだ。
つまり、狭いながらも、対岸に同地名が残っていることになる。有坂の中心地は長良川右岸で、飛び地が左岸にあると解せよう。これをしっかり押さえておきたい。これを過ぎて城南町や稲荷でも境界はやはり長良川の中央線に戻る。
長良川を挟んだ関連地名では殆どすべて、東乙原と西乙原、中野と向中野など、川の存在が前提になっている。これに対し、ここでは両岸共に有坂になっている。
以上を勘案すれば、有坂は洪水によって分断された、と推定できないか。
かつて長良川は飛び地の東を流れており、吉田川の大洪水が合わさって西に押された。飛び地をはさんだ長良川は相当の隘路になっており、本流の洪水であればここで溢れ、大正町や城南町一帯がたびたび水浸しになっただろう。
両川の合流地点はいくたびも変転したのではなろうか。現在の流路のほか、中野の中心となる稲荷の地形から、私は次の三つを想定している。
1 庁舎と郡上八幡駅の間
2 中野の信号あたり
3 中野地区の南端
出合いが八幡駅以北とすれば、合流した長良川が2または3へ流れ込んでいたことになるし、枝の流れだったかもしれない。いずれにしても、駅から北の山側になぜ急峻な崖地があるのかが氷解する。本流ないし吉田川による浸食である。ここを流れていた時代が長いことを示すだろう。
それでは、有坂が分断された時期はいつ頃か。郷帳に登場しないから、戦国時代には郷としての力を失っていたと思われる。洪水による人や田畑の消失が原因とすれば、戦国以前だった可能性が高いだろう。
かくの如き仮説が成り立つとすれば、現在の中野地区は長良川ないし吉田川の流路にあたり、最南端を除けば、郡衙の設置に適さない気がする。

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