夫婦同姓

日本の近代化では、個人と家の関わりを避けて通れない。家同士も難しいし、本家と分家などの付き合いもある。跡継ぎやら遺産相続のいざこざがあちこちから聞こえてくるし、どのような距離感を取るのか悩んでいる人が多いのではあるまいか。近所の交わりから墓の作り方まで、いたるところに課題がある。
私は子沢山の家に生まれ、兄弟が五人いた。一人一人と欠け、今では兄二人になってしまった。思春期から何となく避けてきたことがある。ここら辺りで振り返ってみたい。兄弟六人のうち、上三人と下三人の姓が異なっていた。今まで詳しいことを誰にも尋ねたことはない。私が末っ子として可愛がられ、親兄弟について不満に思うことがなかったからかもしれない。
今なら、容易にそのカラクリが解ける。母親が再婚したのだろう。一度目の結婚で上三人が生まれ、その後再婚して私を含め下三人が生まれた。これなら、過不足なく説明できる。
但し親戚の姓からみて、上三人は母親の旧姓を名乗っていたことは間違いなかろう。つまり離婚後、彼等は前夫ではなく、母親の姓を名乗ったわけだ。
これに対し、下三人は再婚した夫の姓を使用している。一つの家族でありながら、二つの姓が同時に使われていた。両親がなぜこの状況を変えずに暮らしたのか分からない。
つまり我が家は、夫婦が同姓で、子供たちが別姓で暮らしていたことになる。だが、父は早死にしたし、兄弟が同腹だからか、全く違和感はなかった。
日本では様々な制度の中心に家があり、旧家では直系男子が継ぐことを原則にしてきた。これと比べれば、我が家は田畑など守るものもなかったし、既に核家族化していたのかもしれない。
結婚する際にいずれかの姓を選べると言っても、現状では殆ど夫の姓を踏襲しているだろう。私もそうだったし、娘二人も同じである。
これに対し宗族を中心とする制度では、夫婦がそれぞれ別姓のまま婚姻する。族姓が重要視されるわけだ。この下では、女性は旧姓を使い続けることになり、少なくとも彼女らの代は残る。
早くから、私は自分の姓が絶えることを覚悟していた。残すほどのことはないし、惜しくもない。だが、こういった境遇に不公平感を持つ人もいそうである。
数日前に最高裁で、民法の夫婦同姓が合憲という判決が出た。十五人いる判事に女性が三人いて、全て違憲であるという少数意見を述べている。一長一短ありそうだが、同姓でなければならないという規定は既に合理性を欠いている。これにより不公平感が残るのであれば、違憲にして、選択できるようにするのが道理だろう。いずれにしても世の中はさほど変わりはしまい。思うに、日本は未だ近代化途上である。

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