歴史学の視点 -万場の場合-

残念ながら地方史は様々なかけらを集めて整理する他ない。できうる限り宗教学や言語学等でこれらを補う必要がある。
白山の三馬場についてはご存知の方も多かろう。『白山記』によると天長九年(832年)、加賀、越前、美濃に登拝の拠点として馬場が開かれたことになっている。ただ、なぜ「馬場」という名称なのか、その読み方はどうかまで記されていない。いつの頃からか、三所とも「ばんば」と呼ばれるようになった。
一般に美濃馬場は長滝寺とされる。越前馬場が平泉寺だとしても、近くに馬場という伝承地があり、そこから馬をおりて歩く場所になっていたと思う。
越前の禅定道につき、九頭竜川を遡って石徹白を中宮とするコースもあったに違いない。その石徹白にも「番場」という小字がある。
美濃禅定道もまた、現在のルートを外れて別山がもとの信仰対象だったという説もあるぐらいで、一通りではない。とは言え、白山信仰という観点からすれば、やはり石徹白が中宮だったと考えてよかろう。
つまり美濃側からみると、長滝寺と石徹白の二か所に馬場があったとも解せるわけだ。それぞれ役割が異なっていたのではあるまいか。長滝寺からは、まだ前谷から峠を越えて石徹白まで道中は長い。行けるところまで馬で行くだろう。長滝で馬を止めたとは考えにくい。
私は、鎌倉幕府から長滝寺領として寄進されたとする承久三年(1221年)条を重視している。木曽義仲の願文や翌貞応元年及び同二年の寄進状から、これを史実とみている。承久の乱で長滝寺が鎌倉寄りだったのだろう。山田庄が天皇方について敗れ、東氏が新補地頭として配置されたのと対比すれば分かりよい。
同条には四至が明記され、南は和田川限りとする。とすれば、為真(ためざね)は和田川以北なので、少なくとも鎌倉時代は長滝寺の勢力圏だったとみられる。
『大和町史』に「元青蓮院文書 平宗常讓狀」(宮内庁所陵部蔵)という史料があり、「美濃國山田庄馬庭郷内爲眞名」(正和六年 1317年)というくだりがある。「爲眞」は今の為真だろうから、「馬庭郷」は長滝寺の息がかかる大字だったことになる。以上から「馬庭」は「まにわ」とも解せるが、「伊庭」を「いば」と読むことがあるので、「ばば」「ばんば」でよいか。
さて、大和町万場長徳寺にある「方便法身尊像」裏書に「美濃郡上郡野田郷馬場村」(長禄元年 1457年)とあり、「馬場村」と記されている。慶長の郷帳で島馬場が「しまんば」と記され、宝暦の郷帳に「今万場村」があるから、この「馬場」が「まんば」であった可能性が高い。「馬場」と表記して「まんば」と読んでいるわけだ。
史料中の「野田郷」は東氏との関連が説かれる場合が多い。万場は東氏との関連が深く、郡上における分布とも符合するように思われる。

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