「保」のまとめ(中)
前回は気良庄の下保及び中保が庄園時代をさらに遡り、郡衙設置に近い時代まで辿れると考えた。今回は山田庄を取り上げてみたい。未だ生硬やも知れぬ。
『宣陽門院所領目録』(『平安遺文』島田文書)によれば、山田庄は上保と下保に分かれていた。鎌倉時代の始め、十二世紀末から十三世紀初頭のことである。
この場合の「保」は、確かに庄園時代に郷が再編されたものと解することができる。これ自身に異論はない。
それでは『目録』で山田庄を南北に分け、北方を上保、南方を下保としたのにはどんな実態があるだろう。
この地域は郡上郡設置に遡れば栗原郷に該当する。郷名からすれば、現在の栗栖、万場あたりまでが北限だろう。つまり郡衙の行政区として中津屋の和田川あたりが境界だったと解せる。
山田庄がかつての栗原郷を根拠としたのは間違いあるまい。上保川で言えば、五町から万場までである。これに対し長滝寺は天台宗の寺として勢力を有していた。寺領として郡上三千石を有するとの記述もある。少なくとも平安中後期辺りから、和田川の南北で異なる性格をもっていたのではないか。
承久の乱後をみると、幕府が和田川以北で長滝寺の勢力圏を認め、以南に地頭として東氏を配置したことから、長滝寺が鎌倉方についてその存続が安堵され、南部は天皇方について廃されたことになる。
この後、東氏を中心に武士団が庄域を広げ、牛道や阿多木を含め前谷までがその範囲になったと推定できる。長滝寺が飛騨の河上庄をあてがわれたことに関連するかもしれない。
1 山田庄は恐らく和田川の南北で上保、下保に区分されたものの、中保を持たない。また下保に関する史料がまったく無く、地域名としても痕跡がない。
下保は東氏の支配域であって、以北の上保や寒水などを含め着々と版図を広げたので、庄園区分をする便宜上の名であるがゆえに、下保は定着しなかった。これに対し、やや時代が下って永正四年(1508年)の「齋藤利綱掟書寫」(『長瀧寺眞鏡』)に「郡上郡上保 長瀧寺」とあり、上保は継続して使われている。
中保がなく下保が消えているのに、上保が残っている。これは上保が、連綿と続く名称で既に認知されていたので残存した。
2 気良庄の西保が北方にあるにも拘わらず「上保」ではない。これはすでに栗原郷の旧上保が定着していたからではないか。
以上から、そもそも『目録』が庄園を保で区分するのも、和田川以南の地がもともと上保として認知されていたことに起因するだろう。