新年

新しい年が始まった。私は少年期から頭に重しをのせているような生き方で、希望で心が満たされることは殆どなかった。これは学生時代でも同じで、一時勘違いして青春時代を送ってしまったことはあるが、全体として弾むようなことはなかった。
だからと言って、人生が面白くなかったわけではない。自ら考えて決意し、思い切って行動してきた。不安と期待が半々なら、一歩を踏み出す。幸か不幸か、浮世の金やら名誉を持たなかったので、しがらみも左程ではなかった。
残念なニュースがあった。十二月末だったか、釜山のある「市民団体」が日本領事館前に新たに慰安婦少女像を設置したという。日韓政府が合意し未来へ向かって歩み始めたばかりというのに、外交儀礼に欠ける、失礼な行為である。
民主主義がいつも世論に沿って動くとは限らないし、またその方が常に良いというものでもない。世論の高まりとともに法治が乱され、外交の成果を投げ出し、敵対を煽る者たちが支持される。「革命」の名のもとに、それまで積み上げてきた大切なものまで捨ててしまうなら衆愚そのものである。
むしろ若者たちが主体となっているような報道もある。彼らは彼らなりの正義感があり、良心に従った行動だと考えているに違いない。これを支えるのは教育だろう。
日本の近代化が外圧をきっかけにしたとしても、今日の法治をみれば、それなりにこなれてきたと言ってよい。とりわけ敗戦によって、多様な価値観を持たざるを得なくなったこともその要因として考えられる。日本の近代化は個人と家、個人と法や国家など、個が自立することをテーマにしてきた。
どうやら教育の現場で民族主義を吹聴しているらしい。近ごろ韓国の若者が福島を中心に神社の施設を破壊したのも「反日無罪」が底流にありそうだ。仏像を盗み、寺や神社を破壊するなど、他国の宗教施設へ無差別に攻撃することはいかなる理由であれ許されないことを我々は学んできた。民族や宗族を重んじるのがいつも悪いわけではない。が、この期に及んで、自らのモラルをもって他者の信仰を攻撃するというのか。これでは中世以前へ逆戻りではないか。
若者が自由で豊かな社会を継承し、隣国と平和共存を目指す力をつけるのが教育の理念だろう。外交には互いに尊重する精神が欠かせまい。民主主義と正義の名のもとに何度でも国家間の取り決めを破ってよいわけではない。彼らはこれが宿痾となっていることに気づかない。
いわゆる慰安婦問題は、今後とも、史実を抉り出す作業は必要である。だがこれは反省を将来へ生かすためであって、憎しみを再生産するためではない。
民衆が立ち上がり政権を倒すというのは、近頃少なくなってきた。その理念が古臭くなった訳ではない。民主主義の下、法治を目指す運動なら尊敬を集めるだろうに。

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