「保」のまとめ(上)

郡上では保のつく地名がすぐ思い浮かぶ。長良川筋の上之保、西和良と吉田川筋の中之保、そして和良川から飛騨川筋の下之保である。このシリーズで「保」が庄園時代を更に遡って、郡衙設置代あたりまで行きつくことを示すつもりである。
ただ、保のつく地名は郡上だけではない。現在の行政区分で正確かどうか分からないけれども、武儀郡の上之保村、武儀町の富之保、中之保、下之保もよく知られている。武儀の方が原型だったと考える人が多いし、恐らくは間違いあるまい。
混乱を恐れず言えば、武儀の上之保村は郡上の南にあたり、一部郡上の下之保と接している。これは命名の中心が異なるからである。かくの如く、かつての郡央を特定するには「保」の命名を探ることが有力ではなかろうか。
これまで郡上郡衙シリーズ(2014年12/01付け ナンバー2)などでも取り上げてきたが、今回はこれを正面に据えて、かつての気良庄に注目してみる。基本史料をみていただくと次の通り。
祖師野八幡神社の「大般若波羅密多經奧書」はよく知られている。その中で建武四年(1337年)四月二十五日付けに、「此經者 美濃國郡上郡氣良庄下保八幡宮施入也 同庄中保安養寺奄屋東西於佛殿」(卷第四百一十九)と記されている。中保の安養寺の庵室で書写したものを下保の八幡宮へ施入したと読める。これから、気良庄成立に遡って中保および下保だった可能性がある。
また、和良宮地の戸隠神社棟札に「濃州郡上郡五保内之惣社和良保」とあり、五保が旧気良庄のそれだろうから、和良保、下保、中保、南保、西保を指しているだろう。私はこの内南保、西保が、位置と呼び方から新たな開拓地だった印象をもっている。
問題は和良保である。「和良」は郡上郡衙設置に遡り郷として名を連ねている。かつての郷が庄園時代に保として再編されたと解することもできる。ただこの場合、腑に落ちない点が出てくる。
1 和良保が中心であれば、旧東村が下保なのはそれなりに分かるが、実際には中保が同保の西部にある点が不審。和良保が自ら中保と名乗るのではないか。
2 方角からすれば、旧明方筋は北方にあたるから、西保ではなく上保になる。
これらの点を不都合なく説明するのは難しい。私は、郡上郡設置後まもなく設定された下保及び中保を中心に気良庄が成り立ったと考えている。
旧下保が和良保、下保に分かれ、旧中保が吉田庄として成立したあと接収し中保、西保、南保に分けて五保になった。これなら史料上矛盾しないし、和良五保の位置がすべて説明できるだろう。
とすれば、東村の下保及び西和良の中保は庄園時代に残存した地名となり、それぞれ旧下保及び旧中保の零落した姿ということになる。上保については次回また。

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