負けずに嫌う
十年ほど前に、「負けず嫌い」(2006/05/01)というテーマで書いたことを思い出す。その時は、「食べず嫌い」が「食べずに嫌う」から連想して、「負けずに嫌う」と解した。ややこしい文法論で説明されることがあるので、併せて読んでいただくと面白いかもしれない。
理想論としてなら全ての人に好かれるというのはあるかもしれない。が、実際は殆んどあるまい。
宗教の世界なら絶対者が存在するので、同じ信者同士なら何を言っても嫌われないということがあるかもしれない。ただこれにしても、細かな解釈やら、人となりでやはり乖離することがある。異なる神を信仰する場合は敵対するのも珍しくない。
正義もまた、全て人にとって正義などということはあり得ない。全体主義や民族主義の国家にしても、その土台が盤石に見えて実はもろいものだ。
個人の信念に基づく正義感もまた、一時大いに称賛されても、もてはやされる時間は短い。例え精根傾けて作った野菜がいくら完成度が高くても、毎日食べれば飽きてしまう。鮮度や充実感はすぐ落ちてしまうわけだ。
例え誠心誠意ことにあたったとしても、これによって不利になる人がいるやも知れぬ。
誠意が通じないだけでなく、場合によっては、その行為に悪意があると判断されることがあるほどだ。
一旦嫌い始めると、なかなか制御できない。事あるたびに、嫌いであることを確認してしまう。更に好悪を共にする者たちが集まると、他者への批判や敵対が居心地をよくする。こうなるといつも自分の敵となる者が必要となってくる。
そして嫌われる者を排除し、仲間内だけの生暖かい付き合いに籠ってしまうのだ。これをたしなめたり、直言する者をも排除してしまう。もう憎しみまでは紙一重である。
相手が自分を嫌っているのに、相手を好きであり続けることは難しい。信仰や恋ならありえても、日常ではしんどい話である。つまりは、裏返しにして「負けずに嫌う」ことになる。
このややこしい関係を振り払うことはできるだろうか。感情というものは、一旦形が出来てしまえば、理屈の衣をまとい始める。これが嫌悪感へ昇華してしまうと、ほどけずに棺桶まで持っていかざるを得なくなる。
人は人を好きになったり嫌いになったりするのを避けられない。さまざまな行き違いによるずれが原因だとすれば、まだ救いようがある。もう一度自分の目で見て、自分の頭で考えるという原点に戻ればよい。
我々はむしろ異なる価値観のもとで生きているからこそ、自分の生き方を分かりやすく説明する必要が生まれるし、人の意見に耳を傾けるのではあるまいか。