板取の地名と郡上(上)

ふと思いついただけで、自信があるわけではない。主たる関心は、餅穴という地名が穴馬から板取を経由して那比を中心に広がったことを証明したいのだが、傍証することで一杯である。
郡上市の西部にあたる旧板取村の地図を毎日眺めて暮らしている。現在では、関市になっている。今のところ板取の地名と言っても、かつての村名として使われた大字だけで、まだ字(あざ)や小字、通称地名などに届いていない。それでもけっこう郡上に関連しそうな例がある。
郡上と板取は地形も似ており、文化圏も近い。つまり同名なり似た地名であっても偶然の可能性があり、容易に飛びつくわけにいかない。
それでは、どれほど煮詰めれば単なる偶然の域を出られるだろう。残念ながら、まだはっきりした基準をもっていない。
地名は人がつけ、そこに住む者が長く守り続けて今に至っている。とは言え、固定されているわけではない。支配権を握る者たちが地名を捻じ曲げる例は枚挙にいとまがない。そうでないとしても、人の交流が密であれば、地名も動く可能性がある。今回は文化地名に焦点を当てるつもりである。板取から郡上へは三本のルートが考えられる。
1 板取川を遡り、島口を起点にして旧門原(かどはら)村から内ヶ谷を経由して大和へ出る。
2 加部からは、タラガ峠から那比を経由して長良川筋へ出るルート、尾根筋を辿って高賀山へ行くルートに別れている。加部が七谷戸に数えられるのは後者に依ろう。
3 白谷から南下して高賀村から高賀山へ登り、稜線伝いに那比や粥川などへ下る。
今回は那比の「九造(くぞう)」と相生の「門原(かどはら)」に焦点を当てる。
私は旧板取村の門原が、同村の北方にあたるとしても、八幡相生の門原と関連すると考えている。門原から加部までに「保木(ホキ)口村」があるわけだから、簡単に行き来できたのか不安があるとしても、同じ村内なのでそれほどでもなかろう。とすれば
1 加部から那比はメインルートと考えてよいので、両門原に通行上の困難はない。
2 このルート上に那比の「九造」がある。板取九造は加部の北方にある大字で、かつては「九造村」と呼ばれた。今のところ出郷というよりは、木地師の移動にともなう地名という印象をもっている。
3 相生門原にある昭明寺の檀家が板取の加部、白谷といったところに相当ある。最終確認はしていないが、五十軒ほどあるだろうという。
地名の解析に説得力があるか否かは、どれぐらい用例を用意できるかにかかっている。またできうる限り相互の関連性を遡る必要があるだろう。

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